恩師とつくり上げた“理想の泳ぎ”で失格に… 「水没泳法」の高橋繁浩が再びの大舞台で見せた“メダル以上の輝き”(小林信也)

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 高校2年生の高橋繁浩がサンタクララ国際水泳大会に出場、男子100メートル、200メートル平泳ぎで優勝した。いずれもその年(1978年)の世界最高タイム。世界ランク1位になり、80年モスクワ五輪の「金メダル候補」と脚光を浴びた。だが、高橋の水泳人生はそこから順風満帆とはいかなかった。

 モスクワ五輪に向けた79年の日本室内選手権。審判が高橋の泳ぎを「泳法違反」と判定し、失格となった。以後、「水没」の二文字に悩まされ続ける。

 当時は〈スタートとターンを除いて頭がすべて水に沈んではいけない〉と規定されていた。本人には、頭を沈めている意識はなかった。おそらくほんの1度か2度、頭が水中に隠れたのだろう。

「それも、水面より頭が完全に潜ったのか、波が頭の上にかかって沈んで見えたのか、ビデオ判定もないので分かりません。詳しい説明もありませんでした」

 高橋が苦笑いしながら振り返る。そして続けた。

「平泳ぎは水泳4種目の中で一つだけ独特の要素がある。他の3種目は前に向かって手をかくだけ、足を蹴るだけですが、平泳ぎは水中で手と足を戻す動きがある。だからパワーだけでは速く泳げません。手足の長さが不利な要素にもなる。それで平泳ぎは体格で劣る日本選手でも勝負できる」

 技術を磨けば世界を制覇できると確信して、恩師の鶴峯治と二人三脚で理想の泳ぎを磨き上げた。それが皮肉にも「水没泳法」と後に呼ばれる。恩師と描いた理想を体得した瞬間に「違反」の烙印(らくいん)を押された。

井の中の蛙

 高橋は61年、滋賀県草津市で生まれた。

「小学校の時から、泳ぐとクラスで一番速かった」

 市立松原中学で水泳部に入った。温水プールなどないから年の大半はランニングと鉄棒などで体づくりに励んだ。5月になるとプールサイドに布団を持ち込んで、30分泳いだら布団にくるまって温まる、といった練習が待っていた。

「熱心な先生がいて、1年の時はやめたくて仕方なかった。夏休みに毎日プールに行くのも嫌でした。ほかの遊びがしたくて」

 20人いた部員が夏には4人になった。だが練習のかいあって、中学2年で全国中学大会(全中)に出場する。

「広島まで初めて新幹線で行きました。知り合いもいない。招集所で、周りの東京弁に圧倒されて……」

 普段の力が出せなかった。

「100メートル平泳ぎはどん尻でした。周りの強さに驚いた。私は1分19秒。優勝は同じ2年の時田英生君。記録は1分11秒台でした。すごい選手がいるんだなあと驚いた。自分が井の中の蛙だと気付きました」

 悔しさが高橋を触発した。

「秋に近畿大会で3番になって目標を持ちました。来年の全中で優勝しようと」

 優勝には8秒もの記録短縮が必要。だが思わぬ追い風が吹いた。

「中学に入った時、身長は150センチくらいでしたが、ぐんぐん伸びて3年の時には179センチになりました」

 身長と一緒に記録も伸びた。中3の夏、全中の10日前の県内大会で中学新記録を出した。1分10秒06。ニュースはすぐ全国の関係者の間を駆け巡った。

「全中(千葉)に行ったら、『どいつが高橋なんだ?』みたいな人探しが始まっていました。前年はビリだから誰も私を知らない(笑)」

 レースは時田とのデッドヒートになった。100メートル平泳ぎは時田が2連覇、わずかに及ばなかったが200メートル平泳ぎは前年優勝タイムを7秒近くも上回る2分33秒35で優勝した。

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