「べらぼう」で紹介された渡辺謙「田沼意次」の相良城 完成からわずか8年で徹底破壊という残酷物語

国内 社会

  • ブックマーク

12年かけて完成した城だったが

 田沼意次(渡辺謙)の屋敷を訪ねてきた佐野政言(矢本悠馬)が「主殿頭様(意次のこと)はいつお目通りできますか」と尋ねると、嫡男の田沼意知(宮沢氷魚)は、「ただいま城の普請がなりましたので、しばらくは相良の国元のほうへ」と答えた。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の第17回「乱れ咲き往来の桜」(5月4日放送)

 相良(静岡県牧之原市)とは田沼家の領地である。当初、意次は城ではなく陣屋を藩庁にしていた。だが、明和4年(1767)、位階が従四位下に上昇し、5,000石を加増されて2万石の大名になると新規に城を築きはじめ、12年かけて安永9年(1780)に相良城が完成。史実でも、意次はでき上った城の見分に出かけている。

 意次は「ここ佐良は、源内とわしが思い描いたとおりの国となった」と感慨にふけった。続いて家臣もいった。「相良には殿のまつりごとに不満をもつ者などおりません。米農家の珍仕事が増え、百姓は豊かになりました。整った街道や港のおかげで商人たちも潤い、運上、冥加が多く入り、この城の普請は、年貢を一切上げることなく済みました」

 この回は、番組の終わりに流れる「紀行」で紹介されたのも相良藩だった。鈴木奈穂子アナウンサーの語りで、次のように読まれた。

「意次は財政の安定を図るため、養蚕や、ろうそくの原料となるはぜの木の栽培など、新たな地産産業を推し進めました。また、人や物資の往来のため、街道の拡張も行いました。領民から“田沼街道”と呼ばれた道は、江戸時代から続く旧家の脇に、いまもその姿が残されています。安永9年、相良城が完成。このとき意次は、城の見分や領内の視察を行ったといいます。小さな港町だった相良を城下町へと発展させた意次。彼がめざした国づくりの一端を見ることができます」

 たしかに、意次は相良城を築き、領国を発展させたことが記録に残っている。ところが相良城は、完成してわずか8年で、徹底して破壊されてしまうのである。

新規築城が許された特別な立場

 田沼意次が相良の地に1万石を拝領したのは宝暦8年(1758)、40歳のときだった。

 この地は戦国時代には今川氏、武田氏、徳川氏が入り組んでの争奪戦が繰り広げられ、天正10年(1582)の武田氏滅亡後は徳川家康の支配下に置かれた。家康はこの地が気に入って、相良御殿と呼ばれた別荘を建て、鷹狩や船遊びに興じたという。宝永2年(1705)、本多忠晴が封ぜられて相良藩ができたが、先述のように藩庁は陣屋だった。

 そこに明和4年(1767)7月、幕府から意次に、城塁を築くようにという命令が下ったのである。

 江戸時代の大名は、1国以上を領する「国主」、それに続く「准国主」、おおむね3万石以上で、城をもつことを許された「城主」すなわち「城持大名」、城はもたないが格式は城主に並ぶ「城主格」、陣屋しか持てない小藩の「無城」の5階級に分かれ、城が持てるのは上位の3階級だけだった。

 つまり、意次は城持大名に出世したのだが、それだけではなかった。元和元年(1615)に武家諸法度が発布されて以降、新規築城はごく一部の例外を除いて原則的に禁じられていた。築城命令がくだったということは、意次が幕府においていかに特別な地位にあったか、を示している。

 築城の最中にも石高は3回にわたって加増され、城が完成したときには計3万7,000石になっていた(最高で5万7,000石になる)。

次ページ:年貢増徴なしに築いた本格的な城

前へ 1 2 3 次へ

[1/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。