「べらぼう」で紹介された渡辺謙「田沼意次」の相良城 完成からわずか8年で徹底破壊という残酷物語

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年貢増徴なしに築いた本格的な城

 相良城はかなり本格的な城だった。城域は東西約500メートル、南北約450メートルで、面積は約23万平方メートルにおよんだ。北東を流れる相良川と北西を流れる天の川を天然の外堀として利用し、本丸、二の丸、三の丸を配して水堀をめぐらせ、石垣が築かれた。櫓は三重櫓、太鼓櫓、東角櫓、二の丸櫓、南角櫓、西角櫓の6棟が建ち、三重櫓は天守に相当する建築だった。

 ところが、これだけの城が築かれたにもかかわらず、ドラマでも語られたように、築城のために領内の百姓や町民から年貢や税を増徴した記録はない。

 意次の藩政は実際、かなり先進的だったようだ。城下町は碁盤の目のように整えられ、その道路は駿府(静岡市)に合わせて幅4間(8メートル弱)が確保された。また、他藩は交通を抑制したうえで随所に関所をもうけて取り締まっていた時代に、のちに「田沼街道」と呼ばれた中距離道路があらたに通され、東海道との接続も楽になって、領民に大きな利便性をもたらした。

 村々には蝋はぜの栽培、養蚕などを奨励し、製塩にも力を入れ、領民を豊かにしたことも記録に残っている。また、天明2年(1782)から続いた天明の大飢饉に際しては、農民に恩借金をあたえており、「善政」として言い伝えられている。

 ところが、天明6年(1786)8月、意次を信頼し、絶対的な後ろ盾となっていた10代将軍家治が死去。同時に意次は老中を罷免され、10月には5万7,000石のうち2万石を召し上げられ、江戸神田橋の上屋敷と大坂の蔵屋敷を没収されてしまう。

庶民の批判の矛先を意次に向けた

 ただ、このとき命じられた謹慎は12月27日に解除され、意次は翌天明7年元日の年賀の式には登城して、新将軍の家斉に拝謁している。すでに2万石も減俸されているのだから、これ以上の処分はないのが普通である。ところが、それでは済まなかった。
 
 天明7年(1787)6月19日、意次の政治を批判する急先鋒で、「天敵」ともいうべき松平定信が、将軍家斉の実父の一橋治済や御三家の力を背景に老中に就任する。こうなると、もはや理屈ではない。あらたな政権担当者とその黒幕の思惑が前面に出ることになる。10月2日、さらに2万7,000石の没収と隠居、そして下屋敷での蟄居謹慎を命ぜられたのである。

 当初、2万石を減封されたときは、具体的な罪状は示されなかったが、今回は違った。老中在職中の不正が理由だとされた。1万石だけは残されたが、それは相良にではなく、陸奥国信夫郡(福島県福島市など)と越後国頚城郡(新潟県糸魚川市、妙高市、上越市など)にあらためて1万石があたえられ、孫の意明が相続した。

 ちょうど天明の大飢饉から米価高騰が収まらず、米問屋などが襲われて破壊される打ちこわしが後を絶たなかった折から、意次を処分することで庶民の不満を鎮静化し、定信らに批判の矛先が向かうのを避けたものと思われる。

 その流れで幕府は、相良城の取り壊しを決定した。

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