「現場で言葉を交わすところは一度も見なかった」 長男・佐藤浩市に“彼”と呼ばれた「三國連太郎」…親子共演作の監督が明かした“緊迫の撮影現場”
各地を転々としていた根無し草
伊豆下田の港に停泊していた帆船に忍び込んだ三國青年はまず、中国の山東省に渡る。さらに、韓国・釜山に移って駅弁売りをして糊口をしのぎ、帰国した後は縁もゆかりもない大阪などを転々とした。
徴兵検査を受けるため、伊豆に一時帰郷したのは43年、二十歳の時である。しかし、いざ赤紙(召集令状)が来ると、三國は大胆にも「徴兵忌避」を試みる。「放浪時代」の経験を生かして九州まで逃げ、そこから朝鮮半島に渡ろうと考えたのだ。
が、佐賀県唐津であえなく警察に捕まり、故郷に連れ戻された三國は静岡の34連隊に入隊することになった。送られた中国の戦地での日々を「無駄死にしないこと」だけを考えて過ごしていたという三國は、22歳の時に終戦を迎え、半年以上当地で抑留された後、帰国。
終戦後の混乱期、またしても各地を転々とする根無し草のような暮らしをしていた彼に転機が訪れたのは、27歳の時。仕事を求めて東銀座をうろついていたところを、松竹のブロデューサーにスカウトされたのだ。
エンターテイメント性の高い映画から離れ「放浪」
スカウトの翌年に出演したのが木下惠介監督の「善魔」(1951年)。以降、その際の役名「三國連太郎」を芸名として使うようになった。
「三國さんは木下監督の下でいくつかの作品に出演し、稲垣浩監督の『稲妻草紙』(1951年)では見事に時代劇を演じ、順調に松竹大船撮影所で育っていきました」
そう語るのは、映画評論家の白井佳夫氏である。
「その後、稲垣監督が東宝で『戦国無頼』(1952年)を撮ることになり、主役と対立する侍役で三國さんのキャスティングを要求。当然、松竹は反発しましたが、三國さんは出演を決めた。彼は松竹大船という、ホームドラマの撮影が多い環境が嫌になっていたのだと思います」
だが、その東宝にも長く軸足を置くことはなく、
「次に三國さんは日活に行き、市川崑監督の『ビルマの竪琴』(1956年)に出演します。この白黒映画時代の名作での三國さんの演技も素晴らしかった。しかし、彼は日活がエンターテイメント性の高い映画を多く作ることに危惧を覚え、結局、そこも飛び出してしまう」(同)
戦前、中国や韓国などを転々とした時のように映画会社を「放浪」したわけだが、映画記者によると、
「その後、三國さんは独立系プロの映画に活路を見出した。三國さんには、狂気を感じさせるような“役者バカ”エピソードが多々あり、『三國伝説』などと言われますが、それはこの頃できたものが多かった」
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相手役を本気で殴り、真剣を使わせてくれと監督に直訴、私生活では太地喜和子さんと熱愛――。第2回【「なぜ商業路線の映画に出るのですか」…「釣りバカ日誌」で人気を博した「三國連太郎」は「緒形拳」の問いにどう答えたか】では「三國伝説」を目の当たりにした女優・有馬稲子さんや左幸子さん、山城新伍さんらの証言や、三國さんが死の2日前に病床で呟いた衝撃的な言葉を伝えている。
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