「現場で言葉を交わすところは一度も見なかった」 長男・佐藤浩市に“彼”と呼ばれた「三國連太郎」…親子共演作の監督が明かした“緊迫の撮影現場”
親子の確執を感じた撮影現場
三國と佐藤は、一度だけ映画で親子を演じている。しかも、入り組んだ確執を抱えた父子を。1996年に公開された映画「美味しんぼ」だ。この時、三國は73歳、佐藤は35歳。
「美味しんぼ」の監督を務めた森崎東氏が述懐する。
「2人の間の確執というのは撮影現場で確かに感じられました。私は現場で2人が言葉を交わすところを一度も見ませんでした。共演シーンでは2人は同じ空間にいたわけですが、気まずいのか、佐藤さんが1人でその場を外すこともあった。非常に“硬質”で緊張感に満ちた現場でした」
森崎氏は三國のことをこう評する。“普通ではない人だった”、と。
「通常、その人の殻を1枚めくれば何となく人となりが分かるものですが、三國さんの場合、殻をどこまでめくっても分からない。意識せずとも、面と向かった人間に対して“この人は何なんだ”と思わせる力のある人でした」
何事によらず東縛されるのが嫌い
三國は1923年に群馬県で生まれている。父親は静岡県西伊豆の電気工、母親は伊豆半島の漁民の娘。彼の生い立ち、そしてその後の役者人生を語る上で欠かせないのが、「差別」と「戦争」である。
『三國連太郎の器』の著者で写真家の信太一高氏の話。
「三國さんは被差別地区出身ということもあってか、差別はよくないと常々言っていた。戦争で国に裏切られたという思いが強かったからか、体制に向かっていくようなところがあった。何事によらず東縛されるのが嫌いで、持論は『役者は監督や演出家の言いなりになってはいけない』というものだった」
三國は対談本『「芸能と差別」の深層』の中で自らのルーツについて次のように語っている。
〈親父の田舎は伊豆の(中略)被差別地区の一つだとされている所なんです〉
その伊豆で少年期を過ごした三國は旧制中学2年、16歳の時に家を飛び出す。家出の理由について彼は、〈やはり遠因はそこ(出自)にあったと言えるかもしれません〉と語っているが、そこから始まったのは、信じ難いほどスケールの大きい「放浪の旅」だった。
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