五輪に行けないまま引退するのかな…「フェンシング界の内田有紀」が“2度の代表落選”“1年の無所属期間”を乗り越えて銅メダルを獲得できた理由
東京五輪の前には、引退も考えた
中学3年生で出場した女子フルーレのU-17カデット(2012年)で優勝、ユース五輪で個人銀メダル(2014年)を獲得した宮脇選手はその後も実力を伸ばし、2018年のW杯中国GPでは、シニアの大会では自身初の銀メダリストとなって表彰台を経験した。その実力が認められて代表メンバー入りを果たした時期もあったものの、五輪とは縁のないキャリアが続き、パリ大会で初めて五輪の舞台を経験することになった。
「これまでは五輪に出ることが大きな壁になっていたので、精一杯プレーして五輪に出場できたこと、そして私たちが目標にしていたメダルを手にできた喜びは格別なものがありました。それを達成できたことでさらなる次のステップに進むこともできたように感じています」
3度目の五輪挑戦で、宮脇選手は初の本大会出場とメダルを手にしたが、過去2回の代表争いではいずれもメンバーから外れて、「大きな挫折」を経験することに。特に自国開催の東京大会への出場が叶わなかった時には、競技の引退を考えたこともあったという。
「リオ五輪(2016年)に出場できなかった時も、一時は試合を休養するくらいに落ち込みましたけど、時が経つにつれて『多くの先輩が引退されたことで自分にチャンスが転がってきただけだから、そんなに現実は甘くない』と気持ちを切り替えられたんです。でも、次の東京大会に出られなかったことは、私にとってすごく大きな挫折で……。『このまま五輪に行けないままで選手生活を終えるのかな……』と弱気になったこともありました」
本来ならば2020年に開催予定だった東京五輪は、急速に広まるコロナ禍の影響により1年間の延期が決定した。
「自分が代表入りを果たせなかった悔しさに加えて、当時の五輪やスポーツ業界に対する厳しい風当たりを目の当たりにしたことも、気持ちが落ち込む要因になっていました」
だが、海外への遠征もままならない状況が、宮脇選手の情熱に再び火を灯すこととなった。
「当時の私は、代表チームの練習相手としてチームに帯同していたんです。チームはその頃から徐々に力を付けてきていて、『もしかしたらメダルに手が届くのでは……?』と言われていましたが、コロナ禍で海外に向かうことは難しかったので、練習パートナーの私たちが強いチーム作りの命運を託されることになりました。今となっては自分たちが一番強い相手になれるように必死になった日々のおかげで、落ち込んでいた私の気持ちも前向きましたし、3年後のパリ五輪に向けて良いスタートを切れたのかなと感じているんです」
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