「海を憎んだ訳じゃない」と歌う復興ソングが放送NGに 大船渡出身・大沢桃子を救った故郷との縁
第1回【“エレキの神様” に見いだされた演歌歌手・大沢桃子 「歌手になりたい」少女が東京で掴んだチャンスと運命の出会い】のつづき
なかなか芽の出ない東京での3年間を経て、寺内タケシの事務所に採用された大沢桃子。芸名の名づけ主は、あの浅香光代である。綺羅星のごとき作家陣から楽曲を提供され、オリジナル曲のCDを発売した。だが、ある日、あっさり卒業を言い渡され……。
(全2回の第2回)
***
【写真6枚】“エレキの神様”に見いだされ、故郷とともに歩んだ大沢桃子
ハードルが高かったオリジナル曲「娘炎節」
「寺内企画」に所属が決まり、楽屋で弁当を配ったり、リハーサルのサウンドチェックに立ち会ったりと雑務に追われた。そんな大沢に、寺内は7曲を用意した。うち「娘炎節(じょうえんぶし)」と「忘れちゃいやだよ」の2曲は荒木とよひさが作詞し、1998年9月23日に初のCDとなった。それを「寺内タケシとブルージーンズ」のツアー会場で売り、観客に「ちょっと今、紹介したい子がいるんです」と寺内から紹介され、歌う日が続いた。
「『娘炎節』は私にはハードルが高過ぎました。演奏の編成が48人で、ストリングスだけでも18人。出来上がったのはすごい曲で、私が歌を入れた後、最後に会長がギターを入れて。鳥肌が立ちました。ギターが歌に絡むんです。これが寺内節なんだ、って。そんなすごい曲だったから毎回緊張して、上手く歌えないと泣きたくなったことも」
寺内の曲作りの様子も垣間見た。
「ツアーバスの中で『お前、ふるさと出てきて何年だ?』って聞かれて『3年です』と答えると、『郷里を離れて三年…』とかって書き出すんです。『桃子、この詞どう思う?』って聞かれるんですけど、悪いって言えませんよね(笑)。エレキの神様なのに自宅にギターが1本もない。会社のギターを家に持って帰って曲をつけて『ちょっと歌ってみろ』って。レッスンではなく、いきなり『歌ってみろ』の世界でしたね」
いきなりの事務所卒業、演歌系シンガーソングライターとしてついにメジャーデビューも…
寺内企画に所属して3年が経った頃、寺内に突然、「お前、卒業な」と告げられた。
「『これから先、どうすればいいんですか』って会長に聞いたら『馬鹿野郎、そんなことは自分で考えるんだよ。今まで何を見てきたんだ』と。当時、詞を書くのが好きで、書いて会長に見せてたんです。『書くのが好きならやってみたらいいじゃないか』って」
上京に際し自宅から持ってきたキーボードを使い、曲も作ってみようと思い立った。2001年5月発売の自費制作シングル「演歌娘21」のカップリング曲「夢彩花」が作詞・作曲の第一号となった。演歌系シンガーソングライターとしてのスタートである。
その後はレコード会社にデモテープを持ち込む日々が続いた。千尋の谷に愛弟子を突き落とした寺内だが、持ち込み先を細かく指南してくれた。そしてガウスレコードへの所属が決まり、2003年4月23日、「七福神」でついにメジャーデビュー。作詞した「なかむら椿」(現在は仲村つばき)は、大沢が詞曲を作る際の名義だ。
「でも結果が出なかった。詞曲とも担当した『おんなの春』もそう。その次のシングルのとき、当時のディレクターは『演歌系シンガーソングライターという活動スタイルでやってきたけど、成績を出せなかったら今回が最後と思ってほしい』と。いつか結果を出したいではなく、今出さないとその先はないと悟りました」
[1/2ページ]