急逝した天才レスラー「ハヤブサ」の軌跡…2代目登場が話題も、いまだファンから支持される初代の熱く華麗な生き様とは

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胸いっぱいのプロレス

 1995年5月5日、川崎球場に5万8200人(超満員)の観衆を集め、FMWの創始者である大仁田厚が引退した。その相手をしたハヤブサは惜敗したものの、新しいFMWを支えるエースとなった。異変が起こったのは、次のシリーズの開幕戦の5月17日、埼玉・深谷市体育館の第1試合が始まる頃だった。

(10人も客がいない……!)

 メインが始まる頃には、最終的に400人ほどの動員になったが、大仁田なき後の、これが現実だった。ハヤブサはメインの6人タッグで、試合開始直後から場外への三角飛びのケブラータを披露。華麗な飛び技を次から次へと繰り出した。大会最後は肉声で、「FMWは、絶対潰しません!」。泣いているようにも見えた。

 このシリーズ、筆者はある地方会場でハヤブサを観たが、文字通り、空中殺法を全開。危険度の高い場外への三角飛びのケブラーダも、当然のように披露していた。瞬間、リングサイドを無意識のうちに確認した。記者がいない。カメラマンもいない。テレビカメラなど、入っているわけもなかった。つまり、ただ、駆け付けたファンのためだけに、ハヤブサは飛んでいたのだった。観客は100人もいなかったと思う。

 苦しい地方巡業を経て、だが、同シリーズ最終戦の後楽園ホール大会は、超満員となった。「ご祝儀でしょ?」と語ったハヤブサだが、その顔から嬉しさが隠し切れない。この日、ハヤブサは、日本では初公開となる技を披露した。フェニックススプラッシュだった。新生FMWへの、ファンの期待に応えたかった。

「胸いっぱいのプロレス」。それが新生FMWのスローガンだった。デスマッチで一代を成した大仁田の色を一掃し、ただ、爽やかに全力を尽くす姿勢は、徐々に支持を集め始める。本格的にエースとして始動し始めた1995年度の専門誌「週刊ゴング」の人気レスラー投票では、武藤敬司、三沢光晴に次ぐ3位にランクイン。翌年には東洋水産「赤いきつね 緑のたぬき」のCMで武田鉄也と共演し、CM内でファイヤーバードスプラッシュを披露した。テレビ番組の企画で、米米クラブのカールスモーキー石井がマスクデザインを担当したこともある。後年だが、海外から来たファンに、こう言われたという。「ラモーンズ(※アメリカの著名パンクバンド)のジョーイ・ラモーンは、あなたの大ファンだったんですよ」(※ジョーイ・ラモーンは2001年死去)

 もっとも、苦悩がないわけではなかった。1996年末に大仁田が復帰。前代のスタイルが混在し、方向性を見失いかけた。そんな時、三沢光晴と会い、こう言われた。

「小橋ほど真っ直ぐな男はいないね」

 思わず声に出していた。

「試合させてくれませんか?」

 迎えた小橋建太との対戦で、チョップを胸に食らった瞬間、悩みが吹き飛び、「一生懸命やるしかないんだ」という気持ちを新たにした。何事も諦めずに、どんな時も前を向き、「お楽しみは、これからだ!」が自らの決め台詞となった。年を経て、飛び技による怪我も多くなっていったが、「ハヤブサは飛ばなきゃ、ハヤブサじゃない」と、自らの胸にハヤブサのタトゥーを入れた。一時期はFMWを離れていたが、戻って来た旧知のミスター雁之助は、ハヤブサの変貌ぶりに驚いたという。

「俺が知っている江崎英治とは、比較にならないほど、エースとしての責任感が強くなっていた」

俺はハヤブサなんだ!

 2001年10月の試合中、セカンドロープからリング内への技を失敗し、頸椎を損傷。「首から下は一生、動かない状態」と宣告もされた。確かに、最初は眼球しか動かなかった。そのうち、自らが命をかけていたFMWは倒産。絶望から飛び降り自殺しようにも、病室の窓まで動いて行けない。看護婦や関係者へ不満や罵声が多くなった。だが、首をようやく下に向けられるようになると、翼が見えた。胸のハヤブサのタトゥーであった。その時、心に電流が走ったという。

(そうだ。俺はハヤブサなんだ!)

 以降、驚異的な回復力を見せるハヤブサ。入院4か月後に、上体が起こせるようになり、数日後には、補助ありだが、両足で立つことが出来た。盟友の雁之助が元FMWの選手たちを集めて新団体WMFを旗揚げすると、開会宣言は車椅子姿のハヤブサがおこない、介添えがある状態ながら両足で立ち、叫んだ。

「お楽しみは、これからだ!」(2002年8月)

 2013年の小橋建太の引退試合には、「絶対に車椅子で出たくない」とリハビリに励み、杖をつきながら歩いて登場し、開会宣言を担当。2014年にはハーフスクワットも始めたという情報も関係者伝いに入って来た。2019年の復帰をメドにしているとも伝えられた。ハヤブサはこう語っていた。

「お前、ハヤブサだろ? って。ハヤブサだったら、ここは頑張るだろ? 皆の期待に応えるだろ? って……」

 雁之助は、旧友として、こう述懐している。

「本来の彼は楽しいことが大好きで、責任を負うのは避けたいタイプだった。(中略)ハヤブサを続けていくうちに、江崎英治の人格がハヤブサに引っ張られていったと思うんです」(『週刊プロレス』2016年4月5日号増刊)

 ハヤブサは2016年3月3日、くも膜下出血で急逝。インディーズのシンガーとしても活動しており、節目の90回目のライブを馴染みの店でおこなう予定だった。前日まで、健康に異常はみられなかったという。遺体と、故郷の熊本で対面した雁之助は語った。

「穏やかな表情だった。苦痛とか、そういうのは、少なくとも自分には感じ取れませんでした」

 地元での密葬の祭壇には、花でフェニックスの両翼が描かれていた。その中央に置かれた遺影は、ハヤブサのマスク姿だった。
 
 初代ハヤブサのプロレスに賭けた想い。それが真っ直ぐで純粋なものだったからこそ、ファンの心に今もその飛翔が息づいているのではないか。

 2代目は、先代ハヤブサを尊敬する人物と聞く。初代が残したリングへの想いを胸に、躍動する姿を期待したい。お楽しみは、これからだ。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。近著に「プロレス発掘秘史」(宝島社)、「プロレスラー夜明け前」(スタンダーズ)、「アントニオ猪木」(新潮新書)など。

デイリー新潮編集部

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