急逝した天才レスラー「ハヤブサ」の軌跡…2代目登場が話題も、いまだファンから支持される初代の熱く華麗な生き様とは

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 4月27日(日)、両国国技館において伝説のマスクマン、ハヤブサが復活する(「LUCHA FIESTA ESPECIAL」大会)。2代目ハヤブサに対するファンの見方は好意的だ。それは2016年に急逝した“初代”ハヤブサに対する、深く尽きることのない愛情の表出とも取れる。果たして初代ハヤブサはどんなレスラーだったのか。そして、何が素晴らしかったのか――(文中敬称略)。

飛び込みで入門テスト

 本名は江崎英治。1968年、熊本県八代市生まれで、実家は旅館業を営んでいた。1991年、大仁田厚率いるFMWに入団するが、実はこの時、既に科学器具販売会社の内定を貰っていた。しかし、大学でプロレス研究会の同期だった本田雅史(後のミスター雁之助)がFMWの入門テストを受けると聞くと、ハヤブサは一緒に上京。飛び込みでテストを受け、合格したのだった。彼の父はこの時、非常に驚いたという。長男であるハヤブサが、将来的には旅館を継ぐことを匂わせていたこともあるし、弟の方が体が大きく、兄弟ゲンカも強かったのだ。

 そのせいか、高校時代に柔道部だったという格闘歴しかないハヤブサの新弟子時代は、熾烈を極めた。唯一の休日である日曜日に目覚めてテレビを点けると、「サザエさん」が始まっていたことも。入門から1ヵ月半後に本名でデビューするも、怪我で欠場した選手の代役としての出場で、その後は泣かず飛ばず。

 FMWは1991年9月(川崎)、1992年9月(横浜スタジアム)、1993年5月(川崎)と、いずれも球場でビッグマッチをおこなったが、ハヤブサが務めたのは、全て第1試合であった。3年間で、試合の格が全く上がらなかったのである。1993年夏にメキシコ・ティファナに武者修行に出され、これを機にマスクマンに変身。リングネームも東京サマーランドにあった、当時世界最速のジェットコースターにあやかりハヤブサに変えたが、試合がなく、こなしたのは8カ月に10試合ほど。ギャラがタコスだったこともあったという。しかし、そんな中、人生を変える出来事が起こる。

 1994年4月、新日本プロレスが主催するジュニア勢初のオールスター戦「SUPER J-CUP」に出場が決定したのだ。
 
 当時の各団体のジュニア戦士に声をかけた同大会だったが、実はFMWからは新日本プロレスの練習生だったリッキー・フジと、マットさばきに定評のある中川浩二が出場予定だった。ところがこれを大仁田厚が雑談の流れで口にすると、記者たちが怪訝な表情をした。

「江崎選手は……?」

 FMWを第一試合から数多く見て来た記者たちは、江崎の、特に飛び技に対する潜在能力を買っていたのだ。

 大仁田もこれを応諾し、中川との交代を決めると、相手には大会のホストであり、ジュニアヘビーの第一人者、獣神サンダー・ライガーを非公式に要望し、ライガーもこれを快諾した。ところが、メキシコでこの話を聞いたハヤブサは、2度も参加を断る。現地で満足に試合をしてないのだから無理もない。3度目に「会社の決定だから」と、強引に出場を決められた。新日本から送られて来た帰国の便のチケットは、初めて乗るビジネスクラスで、宿舎も新宿京王プラザホテル。新日本の道場に訪れて食べたチャンコの具材の良さすらプレッシャーとなっていた。

 迎えたライガー戦で、ハヤブサはゴング前、ニールキックで奇襲をかけた。もう、破れかぶれだったのだ。そして、真っ赤なガウンを脱ぐ間も惜しいとばかり、場外に落ちたライガーめがけて飛んだ。それはハヤブサ自身、意外にもそれまで試し打ちすらしたことのない、ロープ最上段を越えてのトぺ・コン・ヒーロだった。

 その瞬間、会場の両国国技館に起こったどよめきと、残ったざわめきを忘れることが出来ない。筆者はこの時、ハヤブサの右斜め後方上部の席から観ていたが、ガウンのひだの柔らかな揺れもあり、真紅のほうき星がたおやかにライガーに直撃するようなイメージだった。誇大な言い方を許して頂けるなら、平成プロレス史上に残る名場面の一つだったと思う。

 その後も攻め立てるハヤブサだが、ライガーに倍返しを食らい、後半はグロッキー状態に。しかし、不格好ながらシューティングスタープレスを、この技の開発者であるライガーに逆に見舞うなど、最後まで力を振り絞った。結果は完敗も、惜しみない拍手がハヤブサを包んだ。

 それは紛れもなく、新ヒーロー誕生の瞬間だった。

難易度Eの空中殺法

 この一戦で、FMWの次代のエースの座を手中にした感のあったハヤブサは、メキシコに舞い戻り、空中殺法に磨きをかけた。ウルティモ・ドラゴンに頼み込み、高飛び込み練習用のマットを購入してもらい、1日最低2時間は、飛び技のみの練習にあてた。垂直飛びを繰り返していると、高さはどんどん更新されて行き、ライガー戦では不体裁だったシューティングスタープレスを、完璧にこなせるようになった。

 トップコーナーから1回転して相手をプレスするファイヤーバードスプラッシュ(450度スプラッシュ)も会得した。“ゴールデンスター”の異名で知られ、21世紀のプロレスを牽引した飯伏幸太が、空中殺法の名手についての筆者の取材にハヤブサの名を真っ先に出したことでも、その技術は保証つきだった。

「ハヤブサ選手は、繰り出す飛び技の、全てが美しいんです」(飯伏)

 そしてハヤブサは、難易度Eの空中殺法も完成させる。それが、自らの代名詞ともなった大技「フェニックススプラッシュ」だった。ムーンサルトの体勢から体をひねり、1回転して体の前面を相手に浴びせる超高度なこの技を遂行すると、練習を見ていた、日本人の記者が言った。

「おお! それ、タイガートルネードじゃん!!」

 実は空中殺法の先達、初代タイガーマスクが、雑誌で連続写真を撮られながら、リング上では結局、披露せずに終わった幻の技だった。後に続く獣神サンダー・ライガーも“スターダストプレス”の名で練習し、リングでフィニッシュに使ったこともあるが、この時は体が横腹から落ちてしまっていた。メキシコで最初に披露すると、タッグを組んでいた選手が絶賛してくれた。

「良かったよ! 今の技、凄いじゃないか!」

 レジェンド選手として日本でも知られるミル・マスカラスの弟、ドス・カラスの言葉だった。

 前出の飯伏によれば、狙ったところに当てる空中での体重の移行が、極めて難しい技だという。時を経て、この技の使い手となった飯伏は、敬意を込めて、こうも口にしていた。

「ハヤブサさんは、僕のフェイバリット・ホールドである、フェニックススプラッシュの創始者ですから……」

 だが、ハヤブサが、今もファンの胸に残る伝説の選手となり得たのは、難しい空中殺法をこなせたからだけでは、決してなかった。

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