カップ麺アレンジの定番!? 大バズりした「10分どん兵衛」を提唱した芸人が語る「グルメ外道」の真髄

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 物価高騰が続いている。懐事情が厳しい時に頼りになるのが、カップ麺などのインスタント食品、というのは昔から変わらぬ真理である。もっとも、連日インスタントとなると飽きてしまうというのもまた人情。そんな定番のインスタント食品「日清のどん兵衛」の新しい食べ方が一躍話題になったのは、今からちょうど10年前のことだった。

 提唱者は芸人で俳優のマキタスポーツさん。出演するラジオ番組でマキタさんが、お湯を入れての待ち時間を通常の倍、あえて10分にすることの「美味さ」を訴えたところ、意外なほどの反響を呼び、ついには発売元である日清食品も公式に認める食べ方となったのである。今でも日清食品の公式HPにこの食べ方は紹介されている。

 もっとも、当のマキタさんにはバズらせたいといった考えは一切無かったのだという。

 いったいどういう経緯でこの珍ブームは起こったのか。マキタさんの新著『グルメ外道』をもとに見てみよう(以下、同書より抜粋・再構成。文中の「グルメ外道」とは「王道とは異なるマキタさん流のグルメ」といった意味です)。

哀しい能力

 子どもの頃から「人の言うことを聞く」のが苦手だった。これは決して自慢できることではない。「だから今がある」という成功譚をひけらかすつもりもない。しかも私は成功などしていない。むしろ、未だ拭えぬコンプレックスである。だって、人の話がわからないのだから。

 伝えようとしていることが額面通り伝わるという前提で世の中はできているし、作られている。「話の通じる相手」をより多く作ることが、あらゆる事象に必須だろう。だから義務教育がある。それはわかる。でも私のようなある種の「哀しい能力」を持っていると、そちらの世界のスタンダードから外れてしまっていることに疎外感を覚える。

 こんな私だが、人の話がわかる時もある。しかしそれは、自身で勝手に理路をこしらえて腑に落ちるパターンがほとんどだ。しかも“己の必然”にしか発揮されない。例えば、彼女がほしい→異性と話せるようになろう→そのためには面白くなろう→面白くなるためには……というような理路を作り上げて、そのために必要な智慧を得ていく。

 そうした深刻な“必然”は、食にこそあらわれる。

「腹が減った→なるべく美味しく何かをいただきたい」である。とにかくこれをなんとかしなくてはいけない。

 なんと恥ずかしい“己の必然”だろうか。しかし、そうすることでしか積極的に智慧を得ようとした記憶がないのだから仕方ない。体験する、つまり己の身体を使って、ようやく智慧を得ていくのである。

 食についても、普通は本やネットでレシピを探して読むなどして、料理の智慧を獲得していくのだろう。しかし「人の話がわからない」という「哀しい能力」の持ち主である私は、一般化されたストーリーから智慧を得ることができない。しかも、多くの人が納得する合理的なストーリーをそのまま受け入れることが苦手な一方で、別の部分を凝視していたり、ぼんやりと全体を俯瞰したりする。というか、それしかできない時がままある。それで案外本質を掴めてしまうこともあるのだ。

 そんな「哀しい能力」の果てに辿り着いたのが、「10分どん兵衛」である。

「10分どん兵衛」とは?

 それは、2015年にネットを中心に起こった珍ブームであった。その発火点は私である。ラジオで何気なく「どん兵衛は10分ぐらいかけてふやかすと美味しい」と言ったことがきっかけだった。それが瞬く間にバズり、ついには回りまわって人から「『10分どん兵衛』って知ってる?」と聞かれるまでになった。結果、どん兵衛の売上も急増。発売元である日清食品が公式に「そんな方法は知りませんでした」と謝罪広告(冗談広告)を打つに至り、それが評価され、カンヌのCM賞(「カンヌライオンズ2016 PR部門ブロンズ」)まで受賞した。

 驚いた。何故なら、私は何もそうした現象を期待して、考え抜いた企画ではなかったからだ。誰の影響でもなく、ただパッケージに書かれた「熱湯5分」という“人の話”を聞かなかった結果なのだから。

 この発明には様々な議論や論争が未だにくすぶっている。曰く、「マキタが考えたように言っているが、それは違う。そんなもの前から俺はやっていた」とか「最初にそれを言ったのはオダギリジョーだ」とか「レンジでチンするどん兵衛の方が美味い」など色々だ。それを見るだに少し安心する。私に付与されてしまった名誉のようなものを引き剥がそうとしているのかもしれないが、全国には私と同じような「人の話を聞けない人」が多くいたことに感動するのだ。だって、本当かどうか知らないが、オダギリジョーだって同類かもしれないのだから。

 その中で一番傷つくのは、「やっぱり書かれてある通り5分が良い」という意見だ。「きちんと人の話を聞けることこそが正しい」と言われたような気がして哀しくなる。

誕生の背景

「10分どん兵衛」が生まれた背景には哀しい過去がある。

 時はバブル真っ只中の1988年。大学入学のために山梨から上京した私を待っていたのは、惨めな貧乏暮らしだった。かつては景気の良かった実家の家業は傾いていたので、仕送りまでは援助してもらえない。当座食うには困らないようにと、母親がいっぱいに食料品を入れたダンボール箱を持たされての上京だった。「こんなもん……」と、ツッパって親の愛情を踏みにじっていたのも束の間、大学生活に馴染めず、5月にきちんと五月病になった。

 バイトはおろか、銭湯に行くのも、外に出ることすら嫌だった。飢えて、夜中に穴蔵のような下宿から這い出し、コンビニの廃棄弁当を漁ったり、パン屋のバックヤードにあった食パンの耳をもらって来たりしたこともあった。

 それも窮まって、ある日のこと、母親に持たされたダンボール箱を開けると、中にあったのが袋麺だった。

 私はこれをなんとか嵩(かさ)増しして食べようと考えた。当然、その方法は袋麺のパッケージには書かれていない。実際、規定以上に茹で時間を延ばすと、麺がふくよかに太った感じになる。麺が水分を吸い、中年の体のように少々だらしなくなるのだ。さらに、浸透圧で揚げ麺の小麦成分が溶け出し、いつも以上に汁が濁る。透明度が瀬戸内海の赤潮のように悪くなる頃が食べ頃だ。

 最初の頃は騙し騙し、「1分、いや、足りない。5分、いや、もっといける。10分だ、うーんまだまだ行くぞ!」。そんなトライ&エラーを繰り返した。

「硬麺こそが至上」という向きには、こんな不埒なこともないだろう。腹を満たすためにそこまでするとは、なんて卑しい奴だと思うだろう。確かに止むに止まれぬ事情がそこにはあった。しかし、私はそんな哀れな事情の中でも、「美味しくあれ」という前のめりな気持ちを持って試行錯誤を繰り返した。

 ある時は、水溶き片栗粉でトロミをつけ、伸びた麺もろとも汁の全てをいただききり、またある時は、古くなった牛乳とカットチーズを細かく刻んで入れ、ふやけてエイジングした麺をいただいたこともあった。あるいは、近くの雑草(芹〈せり〉のようなもの)を摘んで来て、ジャガイモと味噌で煮込み、既製のスープとブレンドしていただいたところ、「む!? これはほうとうか?」と驚嘆したこともあった。

 誰に相談するでもなく、公式がガイドする方法にも頼らず、自分なりの脱法的方法で“そこ”に辿り着いた。後ろ向きでなく、前向きに倒れる兵士のように戦ったのだ。それも全ては「人の言うことを聞けなかったから」である。

 その後、経済的に余裕ができてからも、嵩増しをするクセだけは残った。その延長線上に「10分どん兵衛」がある。これを「グルメ外道」と呼ばずしてなんと言おうか。

切実な欲望

 他人と何かを共有するのではなく、ひとり「彷徨(さまよい)人」として、暗がりの中、“そこ(快い)”に辿り着いてしまう「孤独な旅人」とでも言うべき存在がある。皆“快い”に辿り着くことが目的で、常軌を逸した方法は、そのための手段にすぎない。エクストリームであることを目指したわけじゃないのである。

 例えばアウトサイダーアートはどうだ。美術の世界におけるアウトサイダーアートは、言わば、「人の話を聞けなかった人」たちが“己の必然”を追求した「止むに止まれぬ作品」だ。そのようなエクストリームな孤独から生まれたものを、人々は作者の死後に評価するが、それらは「哀しい能力」の産物だったのだと思う。

 繰り返すが、「10分どん兵衛」はマーケティングとか、バズらせようとか、スマートに考えたものじゃなかったということは理解されたい。美味しく食べたいという切実な欲望がその智慧を呼び込んだのだ。

 このような独自の食の合理化を、私は「ライスハック」と呼ぶ。発生までのプロセスは一見不合理。しかし、それがあればゴキゲン。

※本記事は、マキタスポーツ『グルメ外道』(新潮新書)の一部を再編集したものです。

マキタスポーツ
1970(昭和45)年山梨県生まれ。芸人、ミュージシャン、俳優、文筆家など、多彩かつ旺盛に活動中。映画「苦役列車」で第55回ブルーリボン賞新人賞などを受賞。著書に『決定版 一億総ツッコミ時代』『すべてのJ-POPはパクリである』『越境芸人』『雌伏三十年』など。

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