「200字の原稿」のために3日間泊まり込む編集者も… 没後15年「井上ひさし氏」のやっぱりすごい遅筆伝説

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 文学や演劇、平和運動など幅広い分野で活躍した井上ひさし氏。肺がんの闘病中、75歳で亡くなったのは2010年4月9日のことだった。NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」や小説『吉里吉里人』など数多くの名文、名作ともに、「遅筆」の伝説を遺した井上氏。生前を知る関係者たちの言葉でその伝説を振り返る。

(全2回の第1回:「週刊新潮」2010年4月22日号「井上ひさし氏が残した『遅筆』の伝説」をもとに再構成しました)

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本の帯の原稿のためだけに3日間

 筆の遅い作家は珍しくないが、編集者から恐れられもし、尊敬されもした作家の井上ひさし氏。「遅筆堂」というペンネームを持つだけあって、原稿が締め切りに間に合わないことがしばしばあった。

 井上氏の担当だった岩波書店元社長の大塚信一氏はこう語る。

「先生の住まいが(千葉県)市川市にあった時代は、1階の応接室に常時2、3人の編集者が詰めていました。ご存知のとおり、先生は遅筆でね。早くても、締め切りから3日、遅いときでは1週間も遅れることがあったと記憶しています」

 長編小説の原稿を待つ編集者もいれば、書籍の帯に使うわずか200字程度の原稿を待つ編集者もいた。

「本の帯の原稿のためだけに、3日間も泊り込む編集者もいました。井上先生は原稿の遅れについて釈明はしなかったけれど、一生懸命に仕事をされていたのはわかっていましたから、担当編集者が何か言うことはありません。当時、先生は万年筆で、特注の原稿用紙に、丁寧に一字一句を書かれていました」(同)

ズルをしなくちゃならないこともあった

 井上氏の遅筆に泣かされたのは担当編集者ばかりではなかった。井上氏作の舞台「藪原検校」(73年)や「小林一茶」(79年)などを手がけた演出家の木村光一氏も、脚本が期日までに届かず苦労をしたという。

「井上さんは演出家や俳優に気を遣い、『もう少し待って』と、ファクスを稽古場に送ってきたこともありました。やっと1枚、送られてきたと思ったらト書きだけのこともあった。かと思えば初日の前日に、ドカっと送られてくることもある。セリフを覚える俳優は苦労したと思いますね」

 そんな俳優たちのために、木村氏は舞台に、ある“細工”を凝らした。

「『小林一茶』の時、衝立や火鉢などの小道具の、客席から見えないところに紙を張って、セリフやそのヒントを書き入れたこともありました。俳優がそれを見て思い出すのですが、これは本来、演出家の仕事ではありません。でも、そんなズルをしなくちゃならないこともあったんですよ」

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