「200字の原稿」のために3日間泊まり込む編集者も… 没後15年「井上ひさし氏」のやっぱりすごい遅筆伝説
作品のためには安協をしない人
83年、東京・渋谷の西武劇場で上演を予定していた推理劇「パズル」は、井上氏の脚本が間に合わずに公演中止。同年に井上氏の戯曲のみを上演する「こまつ座」を立ち上げ、座付き作家となったが、87年に2作、89年に1作の初日を延期。
91年11月にも、新橋演舞場で予定していた舞台「ある八重子物語」の初日が延期になり、俳優が舞台に出てきて観客に謝罪する一幕もあった。井上氏は身銭を切って補填したという。
「井上さんの遅筆は、演出家や俳優を待たせても、ダメなものは書きたくないという気持ちからだったと思います。作品のためには妥協をしない人で、僕らも困ったけど、良いものが来るんだから待とうという気分でいました。付き合いが長くなるにつれ、何とかなるんじゃないかと思うようになったものです」
「吉里吉里人」映画化権はなぜ菅原文太氏に?
山形県で生まれた井上氏は宮城県仙台第一高等学校を卒業し、上智大学在学中に東京・浅草の劇場「フランス座」で台本を書き始めた。64年からNHKで放送された人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本を手がけ、72年には戯曲「道元の冒険」で岸田戯曲賞、小説『手鎖心中』で直木賞を受賞した。
大妻女子大学の今村忠純教院(日本近代文学)はこう言う。
「井上先生は、とにかく本を読み、字を書くことが全てという人でした。絵を描くことも好きで、連載小説の挿絵を先生ご自身が描くこともあったのです」
81年に出版された代表作『吉里吉里人』の執筆の際にも、
「まず、吉里吉里国の地図を描くことから始めたのです。国会議事堂や劇場の場所、道路などを細かく描いていました。詳細な地図を作ってから、登場人物の動きを書いていくという手法だったのです」(同)
東北地方の寒村が政府に愛想を尽かし、突如独立を宣言する――作中、ふんだんに東北弁が使われる小説『吉里吉里人』はベストセラーとなった。日本SF大賞と読売文学賞を受賞した。
井上氏の母校・仙台一高の1年先輩で、映画化権を譲り受けた俳優の菅原文太氏が語る。
「確かに『吉里吉里人』の映画は、『好きに撮ってくれ』と言われているが、チャンスを逸して、そのままになってるけどな。彼も返してくれと言ってこなかったし、俺も返す気はないから、映画化権はまだ俺にある。俺から彼に、『おい、映画化権くれよ』と言ったら、『先輩ならいいよ』と言われたからなんだ」
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】では、井上氏の素顔を表すエピソードが語られている。