交通事故で死んだはずの父親は「若山富三郎」だった…20歳で再会もいきなり「一番下っ端の付き人」となった息子の告白

エンタメ 芸能

  • ブックマーク

“坊ちゃん”から一番下っぱの付き人に格下げ

 1、2週間後、熱海の旅館で若山企画の新年会が開かれましたが、その席で父は僕のことをみんなに紹介してくれました。「今日から俺の伜が入ることになったから宜しく」と。僕はこれから若山富三郎の息子として、可愛がられるだろうな、と淡い期待を抱いたわけです。でも、父はこう続けたのです。

「まだ何も出来ないんで、俺の付き人から始めさせる。お前ら、引っぱたいてもいいから面倒見てくれ」

 僕はいきなり、“坊ちゃん”から一番下っぱの付き人に格下げです。それまで優しかったお手伝いさんまでが、夜中に突然、僕に、「お寿司を食べたくなった。買ってきてよ」などと言い出す始末。それから2年間、月曜から土曜日まで毎日、父の仕事がなくても事務所に詰めて、父を“先生”と呼びながら働きました。月10万円の給料は良かったけれど、精神的にはキツかった。

 とにかく父は僕に対して厳しかった。しょっちゅう殴られ、蹴られるんです。父が指を二本出したら、すぐにタバコを出さないとバシーンとビンタが飛んでくる。父は僕を息子として扱うのが照れくさかったんだろうし、えこ贔屓だと思われないように人一倍厳しく接していたんだと思います。

 ***

 厳しい付き人生活でもっとも驚いたのは、さながら“大奥”のような人間関係――。第2回【個人事務所は“大奥”状態…息子が見た昭和の名優・若山富三郎の破天荒すぎる「艶福人生」】では、出入りする女性の「ほとんどは父の“お手つき”」だったという当時の若山企画について語っている。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 次へ

[3/3ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。