交通事故で死んだはずの父親は「若山富三郎」だった…20歳で再会もいきなり「一番下っ端の付き人」となった息子の告白
理髪店での世間話で知った父の正体
僕が小学4年生の時、三宮で区画整理計画が持ち上がりました。母は店を閉め、僕を連れて再び上京し、帽子のデザイナーの仕事を始めました。
14歳の時のことです。神戸に帰った時、三宮の理髪店にフラッと入りました。そこの人が、「割烹藤原」のことを知っていたので嬉しくなり、「僕そこの息子なんです」と打ち明けると、「アラ、藤原礼子さんの息子さんなの? あの若山富三郎の奥さんの……」と言われたんです。
こうして僕は思わぬ形で父親の“正体”を知ることになりましたが、父と再会を果たすのは、そのずっと先のことです。
17歳で高校を中退した僕は、俳優の千葉真一さんが(当時)主宰するJAC(ジャパン・アクション・クラブ)に入りました。母に「将来、どうするの?」と聞かれた時、「千葉真一さんが好きだから、芸能界に入りたい」と答えると、母は千葉さんと会う段取りを組んでくれ、JACに入ることができました。
「ウチに来て、修業してみないか?」
ところが、1年後、合宿中に怪我をしてしまったのです。診断は椎間板ヘルニア。医師からアクションはやめた方がいい、と言われ、母の知り合いの日活の松尾昭典監督の勧めもあって、芝居を勉強するため、劇団「昴」に研究生として入りました。
父と会ったのは、「昴」を卒業した20歳の時です。松尾監督が、「芸能界で生きていくなら一度、父親に会って挨拶しておいた方がいい」と手はずを整えてくれました。
西参道(東京・渋谷)の自宅兼事務所のマンションで初めて会った人は、父・奥村勝(本名)であり、俳優・若山富三郎でした。でも、父という実感のない僕にとっては、大役者・若山富三郎が目の前にいる、という緊張感の方が強かった。
その目の前の大役者に、「ウチ(若山企画)に来て、修業してみないか?」と言われた時は、飛び上がる思いでした。若山企画に入れば、すぐに役者としての道が拓ける、そう思ったのです……が、すぐに甘い考えだと気がつきました。
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