62年前に起きた「吉展ちゃん誘拐事件」…完全黙秘の容疑者に「昭和の名刑事」が突きつけた“アリバイの嘘”

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3度目の捜査開始

 小原は38年6月に上野署から釈放後、窃盗罪で3度も逮捕された。捜査第一課のその後の調べで、小原が主張する時計密輸の取り引きはないことがわかる。吉展ちゃん事件への容疑は濃厚だった。そこで、同年11月27日から捜査第一課の一個班を専従であて、小原を追うことになった。所在不明だった小原は12月5日、警視庁築地署に事務所荒らしで逮捕され、同11日、身柄を警視庁本部に移し、吉展ちゃん事件の取調べをおこなった。だが……。

 福島県でのアリバイは、確実とはいえないが小原の供述を裏付ける内容だった。そして20万円の原資について、捜査員は1カ月間、御徒町界隈に出入りしている密輸貿易の前歴者を洗い出し、聞き込みを続けた。

「小原はわずか二、三個の取引きに手を出しただけで、しかもそれは、四月八日以降であったことを突き止めた。しかし、小原はがん強に密貿で得た金であると主張し、これ以上、供述を打ち破る資料が得られず、二十万円という大金入手の原因を解明することができないまま捜査を打ち切り、東京拘置所に身柄を移監した」(前出・手記)

 小原は3月31日、東京簡裁で窃盗罪により懲役6カ月の判決を受け、前回刑の執行猶予が取り消されて、昭和41年2月まで服役することになり、前橋刑務所へ送られた。

 事件から1年。人事異動もあり、捜査体制は縮小された。捜査本部は33名になったが、同39年9月の東京オリンピック警備のため、警備要員として16名が派遣。残る17人が捜査を継続することに。

 そして、新たな手掛かりもないままに、発生から2年となる昭和40年3月を迎える。ここまでに、浮かんだ容疑者は1万2137名。その内訳は(1)シロ(嫌疑なし)となった者=1万1818名(2)保留中の者=263名(3)捜査中の者=40名(4)未着手の者=16名――だった。

 かなりの大捜査を展開したのに、犯人のめどがつかない。捜査本部の内外から「そろそろ捜査を打ち切りにしたら」という声が聞こえてくるのも当然だった。しかし、警視庁は長期継続捜査を選択する。昭和40年3月12日をもって、下谷北署の捜査本部を警視庁に移し、5名の専従捜査員で引き続き、事件を追うことになった。

 捜査員の間では「小原が怪しい」という意見は根強く、専従捜査班が小原の関係者を再当たりすると、やはり事件当時、それも身代金を奪われた昭和38年4月7日前後に不審な行動を見せていることが分かる。報告を受けた警視庁上層部は決断した。

 昭和40年5月13日。小原への3度目の捜査開始が決定される。ただし、上層部は現場に注文をつけることを忘れなかった。それは(1)発生から2年を経過していること(2)小原は過去2回の捜査で、一応“シロ”となっていること――だった。そのため、専従班にくわえ、先入観や予断を排するよう、今まで一度も吉展ちゃん事件に従事したことがない捜査第一課第三係を入れ、総勢18名で捜査にあたることになった。

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