孤立した晩年、4畳半の部屋に閉じ込められて…アントニオ猪木が漏らした絶望の言葉

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いちばん仲良かった倍賞さん

――お兄さんと倍賞さんは仲が良かったんですね。

 夫婦のことだから詳しくは分からないけど、(4人の伴侶の中で)いちばん仲が良かったのは間違いないですね。一人娘の寛子ちゃんのことは、ことのほかかわいがっていました。

――3度目の結婚は46歳の時。22歳年下で一般の女性でした。

 彼女とはアメリカのマイアミで船上結婚式をやりました。その時は、ブラジルから我々も行ったんですが、ちょっと問題があったんですよね。いちばん上の姉さんがアメリカに住んでいたんですけど、その姉さんと新しい奥さんの間でちょっと揉め事があったんです。

――どんな問題があったのですか。

 姉さんが兄貴のところに挨拶に行ったら、奥さんが布団をかぶったまま出てこなかったらしいんです。それを見た姉さんが、「この人はちゃんとしていない」と思ったみたいで……。お袋もそういうことにうるさい人だったから、姉さんはその後、その女性とあまり話をしなかったですね。

――お兄さんは、パートナーに何を求めていたと思いますか。

 倍賞さんと一緒だった頃は、兄貴はまだ元気でしたよ。海外に行こうが、毎日練習していましたから。よく腹筋をやる時に「足押さえろ」って言われてね。そのくらい練習熱心だったのに、だんだん練習もしなくなって、横着になってきて……結局、そうしたことが晩年の病気の原因につながっていったんだと思います。最後の奥さんの時は、本当に体が弱ってきていました。

――4度目の結婚は2017年、お相手は「ズッコさん」と呼ばれる橋本田鶴子さんです。お兄さんを“孤立”させた人間として、著書の中では、厳しい言葉で批判されていますね。

 僕が腹が立ったのは、一度だけではありません。意地悪されたり、恥をかかされたりすることが何度もあったんです。

目をつぶって、「ありがとうな」

――お兄さんを利用しているようにも見えたのでしょうか。

 はい、まだ2人が結婚する前のことですが、私からもはっきりと「兄貴を自分の店(バー・ズッコ)の広告パンダに使わないでよ」と言ったこともありました。自分の利益のために兄貴を利用しているのは、もう本当に目に見えてわかったんです。ただ、兄貴がなぜ、それを「嫌だ」と言わずにずっと一緒にいたのか、僕にはちょっとわからなかったです。

――橋本さんとの結婚後、啓介さんはお兄さんと約10年もの間、音信不通になりますが、橋本さんが2019年に亡くなると、再会されています。その時、闘病中だったお兄さんは当時の関係者によって4畳半のマンションの一室に閉じ込められていて、「人間扱いされていないんだよ」と漏らしたと、著書の中では書かれています。そこからお兄さんを救い出したのが啓介さんでした。

 そうですね。兄貴が最後に僕のことを頼ってきたっていうのは、嬉しかったですね。亡くなる1日前には、「みんなに『ありがとう』って言っておいてな」と言っていました。

――最期を看取ったのも啓介さんです。

 亡くなる前日、不思議だなと思った出来事がありました。兄貴が寝ていて、僕が隣で座っていたら、「ちょっとドア閉めろ」って言われたんです。何か難しいことでも言うのかなと思ったら、ただ目をつぶって、「いままで、ありがとうな……」って。それが最後の言葉でした。

 ***

 第6回【八百長と揶揄され、「プロレスなんて」という偏見をひっくり返そうとした「猪木イズム」】では、アントニオ猪木のプロレスへの思いなどを明かしている。

猪木啓介氏
1948年、横浜市出身。猪木家11人きょうだいの末弟。1957年、一家でブラジルに移住。1971年、新日本プロレスに入社し営業を担当する。アントニオ猪木の闘病生活を支え、最期を看取った。

デイリー新潮編集部

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