アニメ・ポケモン「サトシ」卒業から2年 松本梨香が語る“海外オファー殺到”の現在と“晴明神社への歌奉納”
生死に関わる病で舞台役者断念 声優転身へのきっかけをくれたあの大物
今でこそ声優・歌手として大活躍している松本だが、元々はステージの上で歌い、芝居をするようなエンターテイナーを目指していた。なぜ声優の道に進むことになったのか? そのきっかけは生死に関わるほどの病、そして大物たちからの言葉だった。
生まれは神奈川県横浜市。父親は大衆演劇「新青座 中村雄次郎劇団」を旗揚げし、座長として全国を巡業する舞台役者だった。高校卒業後には教師の勧めもあり、役者になるべく俳協養成所(現・俳協演劇研究所)へ入所。同期には山寺宏一がいた。
入所翌年には、故・井上ひさしさんの劇団「こまつ座」の舞台「雨」でおきよ役に選ばれる。とんとん拍子に役者デビューし、全国を回って舞台を踏む日々を送った。はたから見れば順調そのものの船出だったが、ある日、突然“座礁”してしまった。「発熱して、立っていられないし、寝ていても辛い」という酷い体調不良に見舞われたのだ。
医師の診察を受けると「あと1週間遅かったら命が危なかった」「このまま舞台に立ち続けたら死ぬ」と伝えられたという。半年間の入院生活を送ることになり、せっかく得た役も降板を余儀なくされてしまう。医師の言葉通りなら、“家業”であり“夢”でもある舞台役者の道は閉ざされることになる。デビュー早々から目の前は真っ暗に。10代の少女にはあまりに辛い現実だった。
「先生には『もう舞台はダメ』ときつく言われていました。でも私は、自分は元気になるとしか思っていなかったし、諦めていませんでした」
とはいえ不安は拭えない。
「舞台以外で自分は何ができるのだろう、とベッドの上でずっと考えていました」
退院後に舞台役者としてやっていけるのか――。医師の言葉と、持ち前のポジティブさとの間で揺れる松本の元へ、お見舞いに来たのが山寺宏一だった。
「山さんとは養成所時代からイベントで一緒に司会をやったりしていました。仲が良く、言わば同志。すでに声優の仕事をやっていたので、お見舞いに来てくれた時に『声優の仕事って難しい?』と聞きました。本当、なんの気なしにです。すると山さんが『お前ならできるよ』と軽く言ってくれて、そっか、私にもできるんだ!と思ったんですよ」
そのときまで松本の頭に、声優という選択肢は全くなかったという。山寺の言葉を聞いて「同期の中で一番の仲良しが『できる』と言うから、普通に私もできると思ったんです」と振り返る。退院直後に「雨」で共演した俳優・名古屋章から「梨香は演技がおもしろいからマイクの前で演じてみたら」とアドバイスをもらったことも、後押しになった。声優の仕事なら、舞台俳優ほど体力的な負荷はかからない。
「表現するところはいっぱいある。舞台で何時間もではなく、短い時間で表現することもできる。マイクの前でもお芝居はできる。やってみよう!と思ったんです」
声優としての初仕事は、1988年、アニメ「新・おそ松くん」の松野チョロ松役だった。初めての収録は「難しい、簡単とかじゃなく、楽しかった」。声優は“天職”だったのだ。
そして1997年、アニメ「ポケットモンスター」が始まった。
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