脚本・倉本聰、主演・本木雅弘の話題作「海の沈黙」…モデルとなった「永仁の壺事件」を週刊新潮のスクープ記事で振り返る
60年間、格闘してきたテーマ
11月22日から、映画「海の沈黙」(若松節朗監督)が公開されている。89歳になる巨匠脚本家、倉本聰さんが36年ぶりに手がけた新作としても話題だ。
【写真をみる】「これが永仁の壺だ!」週刊新潮が取り上げ、世間の注目を集めた、疑惑の壺の実物写真
「間もなく卒寿を迎える方が書いた脚本とは思えない、独特の味わいがある物語です」
と、ベテランの映画ジャーナリストは語る。まずは、どんな映画なのか、簡単に解説してもらおう。
「世界的な画家・田村修三(石坂浩二)の回顧展で、画家本人が、自分の作品のひとつを贋作だと言い出すのです。それは、ある地方の美術館の館長が、その素晴らしさに惚れこんで購入した作品でした。画家は、会期中にこのことを会見で公表し、世間は大騒ぎになります。購入した館長は責任を感じて自殺……さらに、北海道では、全身に刺青の入った女の死体が発見され……。これらの騒動に関連していると思われる、かつての天才画家(本木雅弘)が浮上。どうやら、田村画伯の現在の妻(小泉今日子)が、この男と、かつて恋人同士だったようで……」
こうしてミステリー・タッチではじまる物語が、やがて、幻想的ともいえる不思議な人間関係の物語に収れんしていく。
「ベテラン役者をそろえただけに、画面の迫力がちがいます。特に、本木雅弘と小泉今日子は、アイドル時代からの友人で、今回は32年ぶりの共演になるそうです。それだけに、とても余裕のある芝居を見せてくれます。中井貴一が、天才画家のマネージャー役で登場し、“怪演”しているのも見逃せません。小樽を中心とした北海道の風景も、とてもきれいでした」
実は、この物語の“モデル”は、1959~60年に発生し、日本中を驚かせた「永仁の壺事件」だという。重要文化財の「永仁の壺」が現代作家による贋作だったとわかったとたん、文化財指定が取り消され、価値が下がった大騒動だ。倉本さん自身、こう述べている。
〈60年間、この問いと格闘してきました。美とはいったい何だろう――。〉
〈僕は大学で美学を専攻した人間で、そこで学んだアリストテレスの美学の根本、「美は利害関係があってはならない」という一節は座右の銘の一つでもあります。永仁時代の作でないとされた途端に価値がなくなることに、どうしても納得がいかなかったわけです。〉(倉本聰『海の沈黙 公式メモリアルブック』より、マガジンハウス刊)
倉本さんを60年も縛り付けてきた「永仁の壺」事件――実は、この事件の“真犯人”が、かつて、週刊新潮誌上で、懺悔ともいえる告白手記を掲載していた。いったい、どういう事件だったのだろうか。
7ページの大特集
事件のその後を追ったという、週刊新潮のベテランOBに説明してもらおう。
「1959(昭和34)年3月、当時の文部省の文化財保護委員会で、『永仁の壺』が、重要文化財に指定されました。鎌倉時代末期の陶器です。ところが、翌年春ころから、どうもあれはニセモノではないかとの噂が流れ始めたのです」
そこで、マスコミがこぞって追跡取材をはじめたが、特に力を入れて取材したのが、週刊新潮だった。1960(昭和35)年5月2日号で、7頁もわたる大特集「特別レポート スリラー“永仁の壺”」を発表したのだ。
「現在よりもずっと小さな活字で、えんえん7頁、ビッシリと綴られたレポートです。それだけに、あまりに詳しすぎて、要約することは、とても不可能です。なにしろこの事件は、関係者の言うことがすべてちがっていて、いまに至るまで、なお“藪の中”なのですから」
しかしそれでは話が進まないので、かなり荒っぽくなるが、事件のおおよその流れを、OB記者氏にまとめてもらった。
「この壺は、戦前の1943(昭和18)年、愛知県東春日井郡の道路工事現場で、地元の郷土史家によって“発掘”されたものです。陶磁史上、もっとも古い古瀬戸として話題になっていました」
この壺をひたすら賞賛したのが、陶磁器研究家としても著名だった、文部省のK技官だった。海外流出を防ぐためにも、何度か重要文化財に指定するよう提案する。
「しかし、その都度、ほかの委員たちから、刻まれた銘文などに疑問の声が寄せられ、保留とされました。ところが、1959(昭和34)年の審議会で、ついに重要文化財指定が決定します」
このころ、すでに、永仁の壺はニセモノではないかとの声が出ていた。実は、この場所で、かつて、700片もの古瀬戸「松留窯出土片」と称される陶片が発見されていた。だがそのような名称の窯元があったなんて記録はない……どうも変だ……ということは、おなじ場所で出土したという永仁の壺も……?
それだけにK技官は、審議会で、「ニセモノ説もあるので、きちんと検討していただきたい」と口にしていた。しかしこのとき、審査する工芸部会11人の委員のうち、陶磁の専門家が2人しかいなかった。そのせいか、審議は15分間で終了した。
そのとき、K技官は、どう思ったか。週刊新潮のレポートは、こう記している(記事中のK技官は、本名)。
〈K技官は、壺を博物館に持ちかえると、一人で、つくづくと見つめた。が、彼はあることに気がつくと、ふと暗い気持ちに襲われた。/壺のハダに光るクスリの流れ、それが自然さを欠いているのである。(略)彼は、なんどもクスリの流れを追ってみた。間違いを犯した(?)という不安。一方、十七年まえに見た七百片の輝ける陶片の印象も、まざまざとよみがえる。もし、作為だとすると、あの七百片の“古瀬戸”は、いかにして作ることができるだろうか。〉
それができる人物が、いたのである。
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