元横綱・琴櫻が「32歳で横綱昇進」を成し遂げたワケ “投げを封印”で覚醒(小林信也)
大関・琴ノ若が5月場所から二代目琴櫻を襲名する。祖父であり佐渡ヶ嶽部屋の先代師匠の四股名を継ぐ。世間はおおむね祝福モード、家族3代におよぶ成功物語として伝えている。
だが、先代・琴櫻が活躍した昭和の時代、すでに熱心な相撲少年だった私からすると、違和感が拭えない。字面を見れば美しい四股名だから、色白でしなやかな琴ノ若には似合いの名前。けれど先代は無骨でゴツゴツした印象。「猛牛」の異名どおり、相撲も泥臭く猪突猛進的だった。琴櫻と聞けば怖いほどの迫力を思い出す。落ち着いた表情で相撲を取る琴ノ若とのイメージの違いに戸惑うのだ。
琴櫻こと鎌谷紀雄は1940年11月、鳥取県倉吉町(現倉吉市)に生まれた。警察官だった父に柔道を教えられ、柔道の強い倉吉農高に進んだ。が、柔道の試合で佐渡ヶ嶽親方に見いだされ、熱心に誘われて59年1月場所で初土俵を踏んだ。まだ高3の途中だったが、年齢はひとつ上だった。本人が苦笑しながら話している。
「落第してしまって、1年遅れたんです」
前相撲を経て、3月場所からすでに琴櫻の名をもらっている。
71年1月場所、優勝した横綱・大鵬に唯一の土をつけたのが大関の琴櫻だった。この一番ではいつもの大鵬と違う激しい一面があらわになった。冷静に相手を退ける印象の強い大鵬が珍しく怒りを見せた。先に張り手を出したのも大鵬のように見える。互いに乱暴に張り合い、最後は左張り手で大鵬が怯んだところで琴櫻が左ノド輪を決め、そのまま大鵬を後退させて押し出した。
押しひと筋
琴櫻は当初、大鵬にまったく歯が立たず、18連敗を喫している。しかし、69年7月に初めて勝つと、以降は4勝4敗と五分の戦いを展開した。
琴櫻にとって、相撲人生を変えた大きな一番が64年1月場所、横綱・柏戸との対戦だ。
敢闘賞、殊勲賞を続けて受賞し、小結に昇進して勢いに乗る琴櫻が柏戸に挑んだ。土俵際、追い込まれた琴櫻は懸命に柏戸をうっちゃった。だが、柏戸の寄りが鋭く、琴櫻は真後ろに倒れた。その時、右膝が折れ、そこに全体重が乗った。足首の複雑骨折でしばらく立ち上がれなかった。このケガで琴櫻は次の場所も全休、十両に陥落した。三役復帰まで1年近い遠回りを余儀なくされた痛恨のケガだった。この一番について、琴櫻本人が、定年退職する時に受けたNHKテレビのインタビューで語っている。ただし、最初に言及したのはケガのことでなく、勝負の結果だった。
「勝ってたんですけど、立ち上がるのが遅かったために負けにされたんです」
VTRを見直すと、琴櫻の体が土俵下に落ちる前、うっちゃりで右に振られた柏戸のつま先が俵の外に着いている……。確かに、そのタイミングだけを比較すれば琴櫻に軍配が上がってもおかしくない。だが物言いはつかず、柏戸の勝ちとなった。琴櫻にとっては、ケガよりも、勝ちを負けにされた悔しさが終生拭えなかったのだ。
そしてケガと相撲の変化に言及する。
「高校まで柔道をやっていたので、左廻しを取ったら相手を振り回して投げて勝っていた」
それが、ケガをする前の琴櫻の勝ちパターンだった。
ところが、柏戸戦を境に、親方から投げを封印され、徹底的に「正攻法の相撲を取れ」と仕込まれた。
「親方から腕が折れるくらい、真っ黒になるくらい竹刀でたたかれました」
稽古場で、投げる癖が出ると竹刀で激しくたたかれた。
「親方と先輩の琴ヶ浜さんの二人に徹底してしごかれて、それで正攻法の相撲に変えられたんです」
押しひと筋、「猛牛」とも呼ばれた琴櫻の激しい相撲はそうやって生まれた。
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