「大吉原展」開催前には炎上騒動も…なぜ吉原はこれまで美術展のテーマになり得なかったのか

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その場にいるかのような感覚

 続く歴史編の会場には、明治時代の最初期に日本で初めて油彩画を広めた高橋由一による、《花魁》がある。古くから伝わる花魁独特の結髪が廃れるのを残念に思った人物が、油彩画で正確に描き残して記録しておいてもらおうと、由一に依頼したもの。

 モデルは当時人気を誇った稲本楼の四代目小稲という花魁である。完成作を見た本人は、自分はこんな顔じゃないと泣いて怒ったという。従来の浮世絵のような記号化された描き方とは異なり写実に徹したことで、花魁としての神秘性がはぎ取られてしまったのだろう。

 同作はこのたび修復がなされ、顔の色艶や目の輝きまでクリアにわかるようになった。花魁の人間味をはっきり感じ取れる表現である。

 歩を進め3階の大きな展示室へ移ると、真ん中に「大通り」がつくられており、左右に小部屋が連なっている。吉原の町並みが模してあり、彼の地を訪れたときの気分を味わえるようになっている。

 とあるひとつの室では、大きく華やかな肉筆画が出迎えてくれる。喜多川歌麿の《吉原の花》だ。桜が植えられた3月の吉原。ある妓楼で女性たちだけの宴会がおこなわれたという架空の設定をもとに、大画面が描かれている。

 花魁を中心にいくつかのグループに分かれ、歌い踊り宴を楽しむ女性たちの姿。吉原とはさぞや、晴れの場としての演出が行き届いた空間だったのだろう。細部までの描き込みがすさまじく、画面のどの部分を眺めても、その場にいるかのような感覚に襲われる。

両方の面があるということ

 3階展示室の突き当たりでは、ミニチュアながら吉原の一角をリアルに再現した《江戸風俗人形》が観られる。

 檜細工師の三浦宏、人形師の辻村寿三郎、江戸小物細工師の服部一郎の手によるもので、文化・文政時代(1804~30年ごろ)の妓楼を念頭に制作されている。

 一階は楼主の居間である「内証」が中心にあり二階へと吹き抜けになっている。その内証をぐるりと囲むように女性の居間、風呂場があった。二階には宴会を行う大きい広間などが。妓楼の構造が、手にとるようにわかるしくみだ。配される人形は20センチに満たないサイズだが、金糸銀糸が織り込まれた衣装を身につけた精巧なつくりとなっている。

 一方、吉原の周囲の路地には切見世と呼ばれる軒があった。年齢を重ねた者、病を抱えた者が行きつく、下級の見世。二畳ほどの間に布団を敷き、ひたすら客をとるという過酷な環境で働く遊女らの存在があったのだ。彼女らを描いた作品はわずかだった、ともこの展覧会では指摘している。

「吉原の文化的な側面も、売買春が経済の基盤になっていたことも、きちんと見なくてはなりません。片方を見ることによってもう片方を隠してしまうと問題が生じます。両方の面があるということをぜひ知ってください」

 主催者側がこの展覧会に込めた思いである。

 江戸文化の一大集積地であるとともに、同時に売春を経済基盤とした「あってはならない」場所であった吉原が、かつてたしかに存在したという手応えを強く感じる展示である。

山内宏泰/ライター
1972年、愛知県生まれ。美術、写真、教育などを中心に各誌、ネット媒体に執筆。著書に『写真を読む夜』、『大人の教養としてのアート入門』など。

デイリー新潮編集部

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