東京大学の卒業式で厳しい「政府批判」が堂々と 南原繁総長の伝説的な式辞の中身は

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 東京大学の入学式・卒業式では、総長やゲストスピーカーによる祝辞が読まれる。近年では安藤忠雄氏や上野千鶴子氏など、非常に大きな話題を呼んだものもある。式辞では学生を祝う言葉はもちろん、時事的なテーマを扱いながら、学生に考えさせる言葉も多い。この流れは古くからあり、昔の式辞を見るとより色濃く反映されている。

 例えば、1947年に読まれた南原繁総長の式辞では、軍国主義や天皇を頂点とした“神権的君主政治”についてかなり踏み込んだ表現が見られる。格調高い文章からは、過去のあやまちへの後悔の念と共に、新しい日本を作っていかねばらならないという強い決意が伝わってくる、まさに「名式辞」といえるものだろう。

 石井洋二郎・東大名誉教授の新著『東京大学の式辞―歴代総長の贈る言葉―』をもとに、南原総長の式辞の一部とそれが生まれた背景を見てみよう(以下、引用は同書より)。

昭和天皇に嫌われた総長

 戦後最初の総長である第15代の南原繁(在任1945-51年)は、おそらく歴代総長の中でも最も知名度の高い一人でしょう。内務省勤務を経て、1921年に東京大学の政治学史担当助教授に就任した彼は、4年後に教授となり、1945年3月に法学部長に就任、内田祥三総長の補佐役として活躍する中で敗戦を迎えました。同年12月に内田の後を継いで総長となり、戦後の新しい東京大学を牽引することになります。

 南原総長就任直後の1946年1月1日には、いわゆる「天皇の人間宣言」が発布されました。この詔書の最後には、天皇と国民の絆はあくまで「相互ノ信頼ト敬愛」によって結ばれるものであり、「単ナル神話ト伝説」より生じるものではない、また天皇を「現御神(あきつみかみ)」とし、日本国民を「他ノ民族ニ優越セル民族」とする「架空ナル観念」に基づくものでもない、という一節があり、これが天皇の神格否定とされて「人間宣言」と通称されるようになったわけです。

 南原繁はこの人間宣言を、これまで現人神(あらひとがみ)しての天皇を君主として頂く「神の国」とされてきた日本を偏狭な独善性から解放し、国民と文化を新たな「世界性」に向けて開くものとして高く評価する一方、東大でおこなわれた戦後初の天長節式典(1946年4月29日)では、今回の大戦において天皇に政治的・法律的責任がないことは明白であるけれども、道徳的・精神的責任は強く感じておられるはずなのだから、いずれ自らの大義を明らかにされるべきである、すなわち昭和天皇は時機を見て退位すべきである、という趣旨の発言もしていました。そのせいかどうか、昭和天皇は南原にたいして根強い不快感・不信感を抱いていたと伝えられていますが、いずれにしても両者の関係は微妙であったように思われます。

『東京大学歴代総長式辞告辞集』には、1946年(昭和21年)5月1日の入学式式辞から1951年(昭和26年)4月12日の入学式式辞まで、全14編の文章が収められていますが、そのいずれもが質の高い名文であるだけでなく、量的にも全部で100ページに及ぶ充実ぶりで、ひときわ大きな存在感を放っています。

 しかしそれらの式辞を読む前に、まず1946年(昭和21年)3月30日、安田講堂で開催された「東大戦没並に殉難者慰霊祭」において彼が読み上げた「戦没学生にささぐ」という文章を見ておきましょう。この格調高い告文には、わが国がやみくもに戦争へと突き進み、多くの若い命を犠牲にしてしまったことへの痛恨の思いが滲んでいます。

戦争で亡くなった学生たちへの言葉

〈今次大戦において出陣したるのみに永久に還らぬわが若き同友学徒並びに職員諸君のために、茲(ここ)に悲しき記念の式を挙行せんとして、感懐尽(つ)くるところを知らない。

 顧(かえりみ)れば此の幾歳、われわれ国民は何処をどう辿り来ったか。混沌錯乱あたかも模糊たる夢の中を彷徨しつつあった如くである。然し、それにしては余りに厳しき歴史の現実であり、次々に大なる事件の発生、それに依る不安と焦慮、緊張と興奮、絶望と悲哀の交織(こうしょく)であった。唯一事、それを貫いて、今や白日の下に曝されたことは、軍閥・超国家主義者等少数者の無知と無謀と野望さへに依って企てられた只戦争一途と、そして没落の断崖目がけて、国を挙げての突入であった。〉

 この戦争が「軍閥・超国家主義者等少数者の無知と無謀と野望」によって推進されたものであったことを明確に断言するこの一節を読むとき、ようやく「模糊たる夢」から醒めた理性の言葉が東京大学総長の口から発される日が来たのかという思いを禁じえません。

 狂躁の日々にあっても自らの理性と良心に従って冷静に学問に従事していた学生たちは、前章で見たように徴兵延期の特権を停止されてひとたび戦場に駆り出されると、複雑な思いを心中に抱えながらも「没落の断崖」めがけて突入していく国家の意志と命令に従うほかなく、軍人としての任務を忠実に遂行したのでした。そのことを述べた上で、南原総長は1945年8月15日という「呪はしき運命の日」を目にすることのなかった戦没学生たちに向けて、次のような言葉を贈ります。

〈然し、諸君に告げ度いことは、われらの行手に民族の新な曙光、大いなる黎明は既に明け初めつつあることである。今やわが国は有史以来の偉大なる政治的社会的精神的変革を遂げつつある。われらはそれを通して平和と道義の真正日本の建設と新日本文化の創造を為さなければならない。これこそは就中(なかんずく)われわれ学徒が精魂を傾けて成し遂げねばならぬ偉業であり、心血を注いでのわれらの新な戦―「理性」を薔薇の花として、それと厳しき「現実」との融和を図る平和の戦である。〉

 敗戦によって国民が背負った「現実の十字架」の重みに耐え、理性の力をもって新たな日本を築かなければならないというこの決意は、その後数年間にわたって儀式のたびに読み上げられたすべての式辞を貫く基調となっています。

 その意味で、この慰霊祭で語られた言葉は戦没学生たちに捧げられた真情あふれる追悼の辞であると同時に、生き残った者たちに向けられた期待と鼓舞の呼びかけでもあり、総長としての南原繁の出発点であったと言ってもいいでしょう。彼が無教会主義のキリスト教信者であったことも、こうした姿勢の根底にあると思われます。

戦後民主主義の出発

 1946年(昭和21年)11月3日、大日本帝国憲法に代わって日本国憲法が公布され、翌年5月3日に施行されました。いわゆる戦後民主主義の実質的な出発です。1947年9月30日の卒業式式辞には、こうした価値観の根本的な転換を高らかに宣言する文言が見られます。重要な文章なので、少し長めに引用してみましょう。

〈まことに諸君が入りゆく国家の政治生活は、もはや昔日のそれではない。神聖化された国家主義と軍国主義は永久に滅び、いま新しく平和と民主主義の国家は建設されんとしてゐるのである。それはわが国に於て永く抑圧せられた「人間の回復」であり、「人権の宣言」である。民主主義に不朽の意義ありとすれば、それは明らかに国家権力の優位などでなくして、何よりも主体的なる人間人格の諸々の自由と権利思想に在るのである。

 然るに、近代国家主義は、殊にわが国に在つては、余りにも人間の社会を非人間化し、奴隷化し、時に野獣化し来つたのである。それを極度に曝露したものが戦争であつた。本来、人間のために、人間自らが作った権力が、人間以上のものとなり、それ自身を客観化し、独自の存在と威力とを以て、人間の上に君臨するに至つたのである。今次の暴挙たる大戦の悲劇はかくして演ぜられたのであつた。

 いまわれわれは人間理想を深く自覚することに依り、正義に基づく恒久平和を念願し、戦争を絶対否定し、一切の武力をすら棄て去つたのである。ここに近代国家主義の表徴たる軍と戦争は、少くともわが国に関する限り、地を払つたのである。

 そればかりではない。軍国主義と共に、神権的君主政治と専制的官僚主義は倒れたのである。国家の主権はわれわれ国民の手に在り、政府はもはや天皇の官府であるのでなく、国民の厳粛なる信托によつて国民のために存するのである。〉

消えた帝国の二文字

 国家主義と軍国主義の終焉を宣言し、恒久平和と戦争放棄の理念を確認するこの力強い式辞を読むと、戦時中の東大総長たちが(おのれの意志に反してではあれ)軍部の意に沿った天皇礼賛と戦意高揚の言葉を繰り返し述べていたこととの対比が、いやがうえにも際立ってきます。

 前任者の内田祥三総長が卒業式の式辞で「大御心の有難さは、恐惶恐懼(きょうこうきょうく)、唯々感涙の流るゝを禁じ得ないのであります」と述べていたのは、ほんの2年前、1945年9月25日のことでした。しかし今、南原繁総長の口からは「軍国主義と共に、神権的君主政治と専制的官僚主義は倒れたのである」という言葉が発され、政府はもはや「天皇の官府」ではなく、国民の厳粛な信託による機関となったのであるということが語られています。こうして両総長の式辞を読み比べてみれば、敗戦後の価値転換がいかに劇的なものであったかがうかがえます。

 なお、この式辞が述べられた1947年9月30日、「東京帝国大学」はふたたび創立期の「東京大学」という名称に変更されました。およそ60年ぶりに「帝国」という言葉が消えたわけですが、これも戦後における大学の位置づけや役割の変化を象徴するできごとのひとつでしょう。

※石井洋二郎『東京大学の式辞―歴代総長の贈る言葉―』(新潮新書)から一部を再編集。

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。