コックピットに赤軍派が乱入しても…「よど号ハイジャック事件」日航機機長のスゴすぎた決断と操縦技術

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石田・江崎コンビだからこその事件解決

 北朝鮮では簡単な尋問があり、乗務員と山村政務次官は翌々日解放された。彼らはでこぼこの滑走路から日本に向けて飛び立った。よく見れば、滑走路の表面が割れて車輪が半ば沈みかけてしまうような、ボロボロの飛行場だった。

 この歴史に残るハイジャック事件では、乗客、乗員全員の無事が確保された。もし石田機長でなかったら事件はこのように解決しただろうか?

 その問いに江崎は、乗務員がこのコンビだったからこそ事件がスムーズに解決できたのではないか、と語る。どちらかというと実務的な江崎と比べて、機長は口数が少なく大らかで豪放磊落(ごうほうらいらく)なタイプ、肝心なこと以外は人任せにすることが多かった。

 少なくともそのことが、江崎の仕事を迅速にさせた。機長は犯人たちとの交渉や管制塔とのやり取りなどをすべて副操縦士である江崎に任せ、自らは最終的な決断だけを下していたという。

「もし機長が、なんでも自分できっちりやるというタイプだったら、全てを抱え込んでしまい、あれほど事がスムーズに進まなかったのではないでしょうか」と江崎はいう。

すっかり時の人となった“英雄“

 もとより北朝鮮への飛行は石田機長の強い意志があったからで、名も知れぬ滑走路への着陸も機長の操縦の腕があってこそだった。もし福岡の空港や金浦空港で北朝鮮へ行くことに躊躇していたら、事態はもっと膠着し混迷を極めたかもしれなかった。

 乗客に犠牲者が出た可能性もある。当然ながら、福岡でも金浦でも、地上の対策本部は、テロリストの拘束もしくは射殺を狙って、時間稼ぎをしながら、機動隊や特殊部隊の突入を考えていたからである。

 事件発生から5日後、よど号は羽田に帰還した。石田機長はその5日間で、人質を無事に解放した機長として国民的な英雄になっていた。操縦席の窓越しに送迎デッキを埋め尽くした人々を見た石田機長は、誰か他のVIPでも到着するのかと思ったという。

 空港に出迎えるクルーの家族たちの笑顔。なかでも石田機長の帰還は晴れがましく報道された。神奈川・藤沢の自宅でくつろぐ和服姿の機長の写真が、翌朝の朝刊紙面を飾ったほどである。

 その後、石田機長は佐藤栄作首相から表彰を受け、園遊会にも招待され、すっかり時の人となった。だが、その数カ月後、“英雄”はスキャンダルの渦中に放り込まれ、地に堕ちてしまうのだ。それを機に彼の人生は狂いはじめることになるが、その裏には一体、何があったのか。

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