「食べた瞬間、手が止まった」 裁判所書記官で作家の菰野江名がタイ料理の屋台で再会したノスタルジックな味

エンタメ

  • ブックマーク

Advertisement

細胞が「おかえり!」と手を振っているかのような味の既視感

 裁判所書記官として働きながら『つぎはぐ、さんかく』で第11回ポプラ社小説新人賞を受賞しデビューした、作家の菰野江名さん。愛知県の野外民族博物館を訪れた彼女は寒空の下、温かなかぼちゃとココナッツミルクのスープを口にする。ノスタルジックな記憶が、ふわりと思い起こされて……

 ***

 23、24歳の頃、私は愛知県にある野外民族博物館を訪れていた。2月の寒い日で、私は暖を求めてタイ料理の屋台に駆け込み、スープを注文した。かぼちゃとココナッツミルクのスープだった。子どもの頃、旅先で生のココナッツを食べて吐き、また、父の車に染み付いたサーフワックスのココナッツの匂いに酔っては吐いていた私は、ややココナッツ風味が苦手だったのだが、とにかく温かいものを欲して若干の不安を抱きながらもスープを口にした。

 その瞬間、おいしい、温かい、よりも先に、手が止まった。この味を知っている。どこかで食べたことがあるというレベルではない。大げさに言えば、細胞が「おかえり!」と手を振っているかのような味の既視感。

 テダさんだ、と思い出した。

テダさんが作ってくれたタイのおやつ

 テダさんとは、実家の隣家に住んでいたタイ人の女性である。日本人男性との夫婦で、私は彼女にとてもよく懐いていた。小学校から帰ると庭の垣根越しにおしゃべりし、夕食後は一緒に散歩をした。そのおかげか、私は今でも1から5までタイ語で数字が言える。披露する場は今までに一度もなかったが。

 テダさんは、私にあらゆるタイのおやつを作ってくれた。バナナの皮に包まれたうす甘いもち米。焼き芋のノリでくれる焼きバナナ。今でも何かわからないのだが、いちごシロップをかけたかき氷を溶かしてそのままジュースにしたような真っ赤なドリンク。これについては、もらったその場で「おいしい!」とリアクションしたためか翌日もまったく同じものをくれた。

 いつも上気した頬でにこにこと笑っている彼女が大好きだった。

 テダさんはときおりタイに帰り、それが1カ月のときもあれば半年のこともあった。私も大学から実家を離れ社会人となり、帰省してもテダさんは夫婦でタイにいることがほとんどで、会えなくなった。そのことを帰省するたびに寂しく思いつつも、日常に追われて彼女のことを思い出すことも少なくなっていた。

次ページ:不思議なノスタルジー

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。