プロ野球選手を辞めた後、33歳でラジオ局入りした元ベイスターズ投手(54)のいま「部下の方が優秀。異業種に飛び込むなら必要なことは…」

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前編【慶大、五輪日本代表→ドラ1でプロ入りした元ベイスターズ投手(54)の告白「入団前はある程度やれるだろうと考えていたが、現実は全然違った」】からのつづき

 ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、異業種の世界に飛び込んだ元プロ野球選手の第二の人生に迫る連載「異業種で生きる元プロ野球選手たち」。第5回は、横浜ベイスターズ投手からTBSラジオへと職を変えた小檜山雅仁さん(54)。前編では、93年、ドラフト1位で横浜ベイスターズに入団。プロの壁にぶつかり奮闘しながらも2001年に戦力外通告。その後、台湾・中信ホエールズに入団するも1年で現役引退となるところまでを聞いた。後編では、小檜山さんが今の仕事になぜついたのか、そしてどのように道を切り開いてきたのかを聞く。(前後編の後編)

33歳で、右も左もわからぬラジオ業界へ転身

 2002(平成14)年限りでユニフォームを脱ぐ決意をした。この年のオフ、台湾から戻ってすぐに、小檜山雅仁は東京・赤坂のTBSに向かった。慶応大学の先輩でもあり、プロ野球選手と実況アナウンサーという関係でもあった「世界の松下」こと、松下賢次に会うためだった。

「台湾の中信ホエールズを辞めてすぐでした。“何か仕事はないですか?”とか、“僕にできることはありませんか?”と相談すると、松下さんから紹介されたのが、当時のTBSラジオの営業部長だったのです。仕事内容などまったくわからずにその方にお会いして、そこから何度か面接をすることになりました」

 この時点で、「こんな仕事がしたい」「将来はこうなりたい」という明確なビジョンがあったわけではない。そこにあるのは、「とにかく、生きていくためには仕事をしなければ……」という切実な思いだけだった。不安な年の瀬を過ごす中、ついに朗報が届いた。

「その年の12月末だったと思うけど、翌年春からの入社が決まったという通知が来ました。この時点では、自分が何をするのか、何ができるのかはまったく見えていませんでした。すると、その営業部長の方が、“世の中のことで知らないことも多いだろうから、1月からすぐに現場でバイトをしなさい”と言ってくれたんです。確かに自分は野球しかやっていないので、これは有り難いアドバイスでした」

 03年が明け、小檜山はアルバイトとしてTBSラジオに出入りするようになった。と言っても、できることがあるわけでもない。デスクに命じられるまま、コピーをとったり、書類やデータを届けたり、雑用係として奔走した。

「完全な雑用係でしたね(笑)。一応、営業職を希望していましたけど、5年後、10年後に自分がどうなっているかなど、まったく想像できないまま、ただひたすら命じられたことをやるだけでした」

 03年4月、正式に社員となった。同期は大学を卒業したばかりの22歳、23歳の若者ばかりだ。このとき小檜山は34歳になろうとしていた。年齢差は10以上もある若い世代とともに奮闘する日々が始まった。

「TBSに入ってくる新卒の学生はみんな優秀な人ばかりだったので、“このグループの中で、自分はいちばん何も知らないバカなんだ”と思っていました。だから、《元プロ野球選手》というプライドなんか全然なかったし、ましてや《桐蔭学園卒》とか、《慶応大学出身》とか、それまでの経歴や肩書きには何もこだわりはなかったです」

 文字通り、裸一貫でゼロからの生活が始まろうとしていた。

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