能登半島地震は人災だった? 27年間放置された県防災計画…「死者数は7名」という信じられない予測が

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 能登大地震からひと月半がたち、被災地は徐々に復旧へと動き始めている。大災禍が生じた要因のひとつとして耐震化の遅れや発災後の対応の不備が指摘されているが、その大本・県の防災計画には、27年も前の大甘想定が並んだまま。なぜ計画は放置されたのか。

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「輪島との間を行ったり来たりで、慌ただしい日々が続いています」

 と語るのは、金沢市内に住む外(そと)武志さん(60)。外さんは能登地震で輪島市内の実家が倒壊し、現地へ向かったものの、道路の寸断などで到着することがかなわず。母・節子さんと弟・忠司さんを失っている。

「実家の跡からこの間やっと、父の位牌と仏壇を回収することができてほっとしています。母と弟の遺骨は自宅に置いたまま。わが家の墓は輪島のお寺にありますが、墓石が根元から折れて1~2メートル前に飛んでいました。納骨までに1年はかかりそうですね」

 震災で能登半島に行く主要道路は破壊されたが、

「簡易舗装が進み、走りやすくなりました。道中の崖崩れも撤去された。輪島市内の倒れた家屋はほとんど手が付けられておらず、景色は発生当時とほとんど変わっていませんが、復旧のために多くの人が入り、その息遣いが感じられます」

 一方で言う。

「忙しくて寂しさは紛れていますが、ふとニュースを見ると二人のことを思い出し、もっと早く助けてあげればよかった、傍にいてあげればよかったと後悔の念で涙ぐんでしまいます。気持ちの整理はまだついていません」

注目される文書

 復旧はゆっくりと進み始めた。しかし、遺族の心の置きどころはまだ――これがひと月半たった現地の実情というところだろうか。真の復興まで先は長そうである。

 平成以降の地震災害としては、東日本大震災、阪神・淡路大震災に次ぐ規模の死者を出した能登大地震。

 発災から時が過ぎるに連れ、新聞各紙では国や県の対応を検証する記事が掲載されるようになった。

 そうした中で注目されている、ある文書――。

〈石川県地域防災計画 地震災害対策編〉

 これは「地震の災害から県土並びに県民の生命、身体及び財産を保護することを目的」として、県の防災会議が作成したもの。石川県で起きる地震と被害を想定し、その予防と対策、復旧・復興計画を定めたものだ。防災会議のサイトにアップされ、300ページ以上の大部に及ぶ。

 内容をのぞくと、残念ながら、県がいかにこの地の地震について甘く捉えていたのかがよく分かるのである。

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