「セクシー田中さん」でも見えた“原作者を軽んじる”日本ドラマ界 悪しき風潮“著作者人格権の軽視”とは

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山田太一氏の場合は

 一方、23年11月に他界した山田太一さんと話をさせてもらった時、山田さんが脚本を書いたNHK「江分利満氏の優雅な生活」(75年)が面白かったと伝えたところ、渋い表情をされた。「あれは私の作品ではありません」。原作が山口瞳さんによる小説だったからだ。

 山田さんは原作がある作品の場合、原作者と脚本家はイコールパートナーであることが分かっていた。相手の尊重である。原作者への敬意がないこともトラブルの火種になりやすい。

 山田さんによるTBSの名作「岸辺のアルバム」(77年)にも原作がある。山田さん自身がドラマ化前に書いた小説だ。それを山田さん自身が脚本化した。

 どちらも家族がテーマだが、原作は商社のダーティなビジネスを描くなど社会派色が強く、ドラマは不倫や大学受験など身近な問題を強調した。山田さんは小説とドラマの特性の違いを熟知していた。やはり理想的な映像化だった。媒体の違いについて理解が足りないこともトラブルを招く。

「セクシー田中さん」は失敗作

 どんなに高視聴率を獲ろうが、ドラマの大元にいる原作者が怒ったり、悲しんだりしたら、失敗作である。まして芦原さんは亡くなってしまった。残念ながらドラマ版の「セクシー田中さん」も失敗作にほかならない。

 ほかのビジネスにたとえると分かる。ある新商品が大ヒットしようが、特許権を持つ人が開発意図と違うと嘆き悲しんでいたら、成功商品とは言えない。

 特許を考案する人は、自分の思いと違う商品を世に出すために苦労を重ねるわけではない。それでもメーカー側が「自分たちは間違っていない」と主張したら、世間は猛反発するに違いない。

「セクシー田中さん」の場合、9回と10回の脚本は芦原さんが自分で書いた。それまでの脚本が自分の意図と違う内容であり、苦労して創作した作品とは隔たりがあったからだ。こんな面倒なことを好んでやる人はいない。

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