「セクシー田中さん」でも見えた“原作者を軽んじる”日本ドラマ界 悪しき風潮“著作者人格権の軽視”とは

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同一性保持権の強さ

 この問題を法律論で考える際のモデルケースがある。2012年、NHKはドラマ化の許諾を得ていた辻村深月さんの小説『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』(講談社文庫)について、辻村さん側から許諾を取り消されたため、版元の講談社に損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。

 辻村さんが許諾を取り消したのも分かる。原作とNHKの脚本は最も大切なテーマの描き方すら違っていた。テーマは母娘の葛藤だったが、その考え方が異なった。このため、辻村さんは脚本の準備稿の段階からNHKと対立。「セクシー田中さん」のケースと酷似している。

 辻村さんは法廷で、「大切な作品をお嫁に出せない」と力説した。さらにドラマ化作品の多い作家・東野圭吾さんによる意見書も提出する。そこには「原作者が許可した改変のみ許される」と、著作者人格論に基づく主張が書かれていた。

 東京地裁は最終的に辻村さん側を支持。NHK側の言い分は通らず、敗訴した(NHK側の控訴を経て東京高裁の勧告に基づく和解が成立)。同一性保持権を考えると、ごく自然な成り行きだった。

問題のポイントは原作者の承服

 それでも当時のドラマ関係者の間からは判決について、「予想以上に厳しい」「原作とドラマはある程度別ものだと理解してほしい」との声が上がった。司法判断よりドラマ現場の都合を訴えたのだから、市民感覚とズレていた。

 池井戸潤氏が原作者であるTBS「半沢直樹」(13年、20年)も原作と大幅に違っているが、これは改変の正当性を訴える根拠にはならない。池井戸氏の場合は脚本に納得していたからだ。問題なのは原作者が承服していない脚本がつくられること。一部にある「どのドラマだって原作と違うじゃないか」という声はピントが合っていないのだ。

 原作を変えること自体には問題がない。松本清張は自分が原作を書いた名作映画「砂の器」(74年)の脚本について「原作を超えた」と絶賛した。脚本は映画「男はつらいよ」の山田洋次監督らが書いたが、確かに原作以上の仕上がりだった。

 どちらもストーリーの軸には謎めいた殺人事件があった。しかし、原作は犯人捜しの推理に重きを置き、映画は社会にある差別心が犯行を生んだという動機面にフォーカスを合わせた。原作の持ち味も十分に生かした。理想的な映像化だった。ドラマ側が作品の持ち味を分かっていないとトラブルが起こりやすい。

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