「刑務所の中に髪型の自由はあるか」 百田尚樹氏は「罪を憎んで犯罪者も憎む」と主張
受刑者に髪型の自由はあるか
広島弁護士会は1月5日、尾道刑務支所長あての勧告書を昨年末に送付したことを明らかにした。
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トランスジェンダーを自認するある受刑者が、男性受刑者として服役していた際、髪型で「原型刈り」か「前五分刈り」の2択を強いられたことは、受刑者の「自己決定権を侵害するもの」であり、今後はそのようなことを強いてはならない、というのが勧告の概要である。「原型刈り」とは、丸坊主のようなヘアスタイルのこと。
申し立てをした本人はすでに刑務所を出所しているものの、出所後も刑務所の対応が変わることを求めているという。
弁護士会の主張を勧告書から一部、引用してみよう。
「憲法13条は、生命・自由及び幸福追求に対する国民の権利を保障しており、その一内容として自己に関する事柄について、公権力の干渉を受けることなく、自ら決定することのできる権利(自己決定権)を保障している。髪型の自由(あるいは強制的に調髪されない自由)も、身体の処分に関わる事柄、家族の形成・維持に関わる事柄と同様に人格の核を取り囲み、全体としてその人らしさを形成しているという意味においてやはり自己決定権の対象であるというべきである」
もちろん受刑者がある程度制約を受けることは「あり得る」ものの、髪型の強制は「合理的」とはいえず、憲法違反だ、というのが弁護士会の主張だ。
受刑者の権利をどこまで制限するか、あるいは認めるかというのは難しい問題で、今回のような異議申し立ては頻繁に行われている。
死刑囚は「パンまつり」に応募できるか
この問題について、従来から厳しい意見を述べているのがベストセラー作家の百田尚樹氏である。百田氏はこの種のニュースが報じられた際に、頻繁に違和感を口にし、著書で持論を展開してきた。
ある時には死刑囚が「パンまつり」への応募ができなかったことを不服に思い、国を相手に賠償を求めた裁判について、死刑囚がこんなことで「国に文句をつけるなんて言語道断」とバッサリ(『偽善者たちへ』より)。
また、今回の勧告書と関連した話題としては、2021年から福岡少年院が一律の丸刈りをやめ、スポーツ刈りも選べるようにしたことについては、次のような意見を述べている。
「(入所者に対して)厳しい“矯正教育”を施すことにより、『こんなところに入ったら大変』だと思うくらいが丁度いいのです。(略)
少年院は居心地のいい場所である必要はなく、またそうであってはいけないのです。私などは、少年院に入っている間はてっぺん禿げのヘアスタイルにしてやればいいと思うのですが、こんなことを言うと、また人権派の弁護士や文化人から叩かれるのでしょうね」(『アホか』より)
広島弁護士会が聞いたらたしかに大変な反応を招きそうな主張ではあるが、よほど腹に据えかねるのか、新著『大常識』でも、百田氏は受刑者の権利に関する話題を取り上げている。以下、引用してみよう。
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死刑囚の権利と義務
東京拘置所に収容されている死刑囚の男がカメラ付きの部屋で14年間も常時監視されたのはプライバシー権の侵害だとして、国に約1900万円の賠償を求める訴訟をおこしたというニュースが、2022年9月にありました。
2013年に殺人罪などで死刑が確定したこの男は、一審で死刑判決を受けた2007年から天井に取り付けられたカメラによって着替えや排泄の様子もすべて撮影される東京拘置所の部屋に収容されたことが精神的に苦痛だったというのです。
拘置所や刑務所では自殺、自傷、逃亡などを企てる可能性のある収容者に対してはカメラでの監視ができるようになっています。不測の事態に対応できず死なれたり逃げられたりしたら収容施設の責任が問われるのですから当然でしょう。しかし、この男は自分はそんなこと考えていなかったのに、そのことを十分に検討せずただ漫然と監視を継続したのは違法だと言うのですから開いた口がふさがりません。
言うまでもなく監視の必要の有る無しを決めるのは死刑囚自身でなく拘置所側です。こんな言い分が通るのなら、「逃げも隠れもしないから家に帰らせろ」という要求も聞かなければならなくなります。ところがです。なんと拘置所は2022年3月以降、死刑囚の問題提起を受け入れカメラのない部屋に移したといいますから、またもや開いた口がふさがりません。これでは死刑囚の言い分が正しいと認めたのと同じです。その結果が1900万の要求ですから拘置所の弱腰にはがっかりです。
現代の我が国は「人権」と言われれば、過敏に反応する風潮が強まっています。たしかに「人権」は人種、性別、年齢を問わず最も尊重されなければなりません。しかし、その中で唯一の例外は殺人犯です。メルマガ「ニュースに一言」でも死刑囚の“とんでも要求”がある度に毎回言っていますが、命という最も尊重される他人の権利を奪った殺人犯に認める人権なんてありません。ましてや国家に対する賠償要求などもってのほかです。
そもそも死刑が確定してから9年も経っているのになぜ執行されていないのでしょう。百歩譲って死刑囚に“権利”があるとして、その前に確定判決後6ヶ月以内の執行という“義務”があるのを忘れてはいけません。
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罪を憎んで犯罪者も憎む
同書(『大常識』)の中で、百田氏は「たとえ受刑者であっても非人間的な扱いを受ける必要はないでしょう」とも述べている。この点は“人権派”の主張と重なるようにも見えるだろう。が、続けてこのようにも述べている。
「しかし彼ら(注・日弁連や朝日新聞など)の主張を聞いていると、頭が混乱してしまいます。一体今、問題にされている人物はどういうことをした人なのか。そこまでみんなで守ってあげなければいけない人なのか。
犯罪者の人権を主張することに費やすエネルギーの一部、いや大部分は被害者を守ることに使ったほうがいいのではないか。そう思うのが普通の人の感覚だと思うのですが、そんなことを言おうものならばまた野蛮人扱いされるのです。
犯罪といってもいろいろあり、それぞれに事情があるのもたしかでしょう。貧しさからやむにやまれず盗みを働いた、といったケースにまで厳罰を求めることはないのかもしれません。『罪を憎んで人を憎まず』とはそういう時に使うべき言葉です。
一方で、多くの犯罪は罪を憎み、犯罪者を憎む。それでいいのではないかと思うのですが」
国民の多くが共感する「常識」はどのあたりにあるのだろうか。