「6人殺しても無期」判決の衝撃 百田尚樹が司法に対して発言してきたこと

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 12月5日、東京高裁が下した判決には大きな反発が寄せられた。埼玉県熊谷市の6人殺害事件(2015年)の被告に対して、一審(さいたま地裁)の死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡したのだ。刑が軽くなった理由は、被告の心神耗弱を考慮してのことだという。

 6人殺しても死刑にならない。

 心身に問題がある可能性があった場合には刑が軽くなる。

 いずれも一般庶民の感覚では理解しがたいとはいえ、判決を下した裁判長や法曹関係者にはそれなりに理解できる論理だということなのだろうか。

 こうしたギャップを埋めるために裁判員裁判制度は採り入れられたはずなのだが、今回の高裁判決は、一審での裁判員裁判での判決を破棄してのものだった。それだけに、理解できない、という声は各方面から上がっている。

 作家の百田尚樹氏は、新著『偽善者たちへ』の中で、こうした問題について積極的に自身の見解を述べている。同書は百田氏がその時々のニュースについて書いたコラムをまとめたものだ。同書から、死刑や刑の軽減についての一般人の感覚をよく示しているコラム、「死刑と人権」「暴行犯と知的障害」の二つを全文引用してご紹介しよう。いずれも今回の事件とは別のケースを論じたものであるが、専門家と普通の人の感覚のギャップがわかりやすく綴られている。

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死刑と人権 (2015年12月25日)

 一般市民も参加する裁判員裁判制度が開始されて6年半が経過した、2015年12月、その判決によって確定した死刑が初めて執行されたとのニュースがありました。

 最初の死刑判決は2010年の11月ですから、既に5年以上の歳月が流れています。なお今回執行されたのは2011年6月の判決分で、初回の死刑囚はまだ執行されていません。現在の法律では死刑が確定してから6カ月以内に執行しなければならない決まりですが、ほとんど守られていないようです。

 執行最終命令者は法務大臣ですが、2005年から2015年までの10年間の法務大臣18人のうち、ひとりの執行命令も下さなかった大臣が8人もいます。まあ10年で18人ですからその在任期間は最長でも谷垣大臣の20カ月で、1年以上が2人しかいないという困った状況では仕方がない部分もあるのかもしれません。しかし、大臣の中には堂々と「死刑反対」を宣言し、一切の執行命令を下さなかった者もいて、「職務を遂行する気がないのなら法務大臣になんかなるな」と世間の非難を浴びました。

 死刑反対派は人の命を人間が奪うことは何があっても許されるものではないと言いますが、よく考えていただきたい。死刑判決を受けるにはそれ相当の理由があります。殺人を犯したなら死をもって償えと言っているのです。現在の死刑判決は基本的に被害者が複数いないと下されません。これもおかしなことです。ひとり殺せばそれはもう十分に死刑に値すると思うのは乱暴なのでしょうか。

 2006年に奈良の小1児童殺害事件で死刑判決が出た(その後、執行)のは極めて例外的なケースですが、私にはこれが普通のことと思えます。

 なにかというと加害者にも人権があると言われますが、そもそも他人の人権を認めない者に人権を与える必要なんてありません。命を奪うということは最も被害者の人権をないがしろにしているということです。被害者遺族にしてみれば自らの手で仇をとりたいと思っても法治国家においてそれはできません。そんな遺族の思いを代行するものでなければ裁判の判決なんてなにも意味を為しません。

 いま日本には120人以上の未執行死刑囚がいます。判決後の未執行期間が最も長い死刑囚は46年にもなります。

 死刑制度は死刑執行がゴールであって、判決の確定で終わりではないとしっかり認識していただきたい。こんな状態がこれからも続くのであれば、私は死刑制度反対論者ではありませんが、死刑に代わる罰を定めてそれを確実に遂行するほうが、まだマシだと思います。

暴行犯と知的障害 (2017年7月7日)

 昨年12月に大阪のJR新今宮駅で、女性2人を線路に突き落として暴行の罪に問われていた28歳の朝鮮籍の男の判決が大阪地裁でありました。求刑懲役2年6月に対して出された判決は懲役2年6月、しかし執行猶予が4年付いていました。

 裁判長は犯行については重大だとしつつも、軽度知的障害が影響しているとして、「社会で更生を図るのが適当」と判断したそうです。裁判の中でこの被告は、就職しても障害の為に長続きせず、4年ほど前からは無賃乗車で遠方に出かけては無銭飲食を繰り返していたことが明らかになっています。その挙句が突き落とし事件です。

 精神障害をもっている人たちの罪が問われなかったり、軽減されたりすることは法律でも認められており分かるのですが、問題はそのあとです。無罪放免となって一般社会に戻ると、また同様の行動をとる可能性があることは容易に想像できます。

 今回の裁判でも執行猶予で日常の暮らしに戻った被告が、また誰かを線路に突き落とすことは十分に考えられます。次はけが人だけでなく死者がでないとも限りません。それを防ぐ為には一定の施設で保護したり、外出時には必ず誰かが付き添って見張るなど、事件を未然に防ぐ手立ては絶対に必要です。

 こんなことを言うと、やれ障害者差別や人権侵害だとまた言われるかもしれませんが、ならば逆に問いたいです。「あなたはいきなり線路に突き落とされて電車に轢かれても、加害者の人権のために文句ひとつ言わず笑っていられるのですか」と。

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 もちろん、二つのコラムは、あくまでも作家である百田氏の個人的な意見の表明にすぎない。いつもながらいささか過激に感じられる人もいることだろう。

 また、このような意見は、専門家たち、たとえば今回の判決を下した裁判長のような立場の人たちからすれば暴論だと考えられるのかもしれない。

 しかしながら、百田氏のように、日本の司法が加害者側に手厚いように感じている人は少なくない。

 死刑破棄の決定を聞いた熊谷の事件のご遺族は、やりきれない思いと怒りを口にしたという。

 こうした遺族の気持ちを無視してよいと思う人は少ないだろう。昔と比べれば、被害者への支援なども進んでいるのかもしれない。
しかし、それでも司法の判断と、当事者の気持ちの間には大きな溝がある。

 この溝を埋めるための議論は怠ってはならないのではないだろうか。

デイリー新潮編集部

2019年12月8日掲載

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