仲間16人と谷中の寺に立てこもり…期待の力士「天龍」はなぜ廃業し、プロレス入りしたのか

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親方の期待の大きさを示す「天龍」の四股名

「二所の荒稽古」と称された、当時の二所ノ関部屋の猛稽古。そこで揉まれること4年半。21歳で晴れて新十両昇進となった。

 昇進を機に、四股名を本名の嶋田から天龍に改名。師匠から、改名を告げられた時、天龍は腰が抜けるほど驚いたという。

 初代「天竜」の天竜三郎と言えば、昭和初期、春秋園事件の主導者としてその名を馳せた力士である。出羽海部屋の所属だが、二所ノ関親方(元大関・佐賀ノ花)は、わざわざ出羽海部屋へ足を運んで、四股名を譲ってもらっていた。そして、部屋で次に強い力士が出てきた時のために、「天竜」の四股名を温めていたというのだから、二所ノ関親方の期待の大きさが計り知れる。

 初代天竜からも、「俺の名前を汚してくれるなよ」とハッパをかけられた天龍。

 幕内で活躍するようになると、甘いマスクの天龍は女性ファンの熱い視線を集めるようになった。

「いやぁ、そんなに人気はなかったよ。あの頃は、北の富士さんや増位山さんとか、カッコいい力士がいっぱいいたから、俺なんかカヤの外ですよ」

 こう天龍は謙遜するが、同時代に相撲を取っていた元力士によると、

「天龍はものすごくモテていた」

 とのことで、青春を謳歌していたことは間違いなさそうだ。

谷中の寺に立てこもり…二所ノ関騒動の顛末

 さて、昭和50年、天龍のその後の運命を変える大事件が勃発する。

 いわゆる二所ノ関騒動である。

 佐賀ノ花の二所ノ関親方が亡くなり、元大関大麒麟(元押尾川親方)が部屋を継承するものと大多数の人が思っていたところ、二所ノ関親方の娘との結婚が決まっていた金剛が、部屋を継ぐことになったのだ。

 その結果、大麒麟は独立して二所ノ関部屋を出ていくこととなり、入門以来大麒麟を尊敬していた天龍は、大麒麟に付いていく道を選択。仲間の力士16人と共に、谷中の寺に立てこもるという行動に出たのである。

 この騒動の結末は、理事長裁定によって下された。幕内・青葉城(現不知火親方)らは大麒麟が新しく興す押尾川部屋への移籍が認められ、天龍は元の二所ノ関部屋へ残ることが決まったのだ。

 しかし、二所ノ関部屋に戻った天龍を取り巻く空気は不穏なものだった。「一度出て行った男」は、部屋での居場所を失っていたのだ。

 まだ26歳。気まずい雰囲気は、天龍から居場所どころか戦闘意欲までも奪うことになっていた。

「13年も相撲を取ったし、もうそろそろいいかなぁ」

 天龍はいつしかこんな気持ちになっていた。

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