月給12万円で“うどんの世界”に飛び込んだ元巨人・條辺剛さん(42) 愛犬の名を店名にするつもりが…セカンドキャリアで成功した秘訣

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前編【條辺剛さん(42)が回想する巨人投手時代…1年目の秋キャンプで丸坊主になった事情、怪我との戦い、水野雄仁からされた運命の提案】からのつづき

 引退後、異業種の世界に飛び込んだ、元プロ野球選手の今を訪ねる新連載。元プロ選手という誇りとプライドは、第二の人生でどのような効果をもたらすのか。ノンフィクションライター・長谷川晶一氏が、新たな人生をスタートさせた元選手に迫る新連載第2回は、読売ジャイアンツで投手として活躍した條辺剛氏(42)。前編では徳島県立阿南工業高からジャイアンツ入りし、1軍マウンドで活躍した頃を振り返った。現在は埼玉県で讃岐うどん店を営む條辺氏のセカンドキャリアの歩みは、どのようなものだったのか。(前後編の後編)

年俸3400万円から、月給12万円でのうどん店修業

 24歳の秋に戦力外通告を受けた。再就職先として同郷の先輩・水野雄仁から紹介されたのは、まったく予期していなかった「宮崎のうどん店」だった。條辺剛が述懐する。

「小学校の卒業文集に“飲食店をやりたい”と書いたのは、キッチンで料理をしている自分をイメージしていたからです。そんなことを話したら、水野さんから勧められたのが、水野さんの知人が関係しているうどん店でした。何もせずにじっとしているのなら、まずはうどん屋さんで修業する。そうすれば引き出しも増えるし、後々のためにもなる。そんな思いで宮崎に行くことにしました」

 当時の條辺は独身だったので、単身、宮崎に乗り込んだ。現役時代にはキャンプ地として何度も訪れた場所だ。ジャイアンツ時代には最高で年俸3400万円を手にしていた條辺は、月収12万円で、第二のステージに臨むことになった。

「たまにお客さんの前に出ることもあったけど、僕は主に工場で麺作りに励みました。長靴を履いてずっと立ちっ放しです。現役を辞めたばかりでしたけど、決められたエリア内でずっと立ち仕事をするのは辛かったです。グラウンドを走ったり、ブルペンで投げたりする方が全然ラクでした」

 05年12月に単身で乗り込み、まずは1週間働いた。そして、翌06年1月からスタートした本格的な修業期間は半年ほど続いた。ここで條辺は意外な提案を受ける。

「もう1店舗出すことになって、社長から“内装から何から全部好きにしていいから、お前に任せたい”と言われました。とてもありがたい申し出だったんですけど、この頃にはうどん作りが面白くなってきて、“やっぱり、本場の讃岐うどんを学びたい”という思いが芽生えていたんです」

 四国・徳島出身の條辺にとって、讃岐うどんは幼い頃からなじみがあった。「本格的にうどん作りを極めたい」という思いとともに社長からの申し出を断ることを決めた。

「本当にありがたいお話だったんですけど、すでに“讃岐うどんを学びたい”と思っていたので、“こんな気持ちのままではお受けできないな”と思って、丁重にお断りしました」

 宮崎を訪れたときには「後々のために引き出しが増えればいいな」と考えていた條辺は、この時点ですでにうどん作りに魅了されていたのだ。

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