【勝新太郎の生き方】麻薬所持で逮捕され、裁判で「今回のことで30歳くらい大人になった」 滅茶苦茶な人格を愚直に演じ続けた天才役者の実像

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次の映画への夢を語り続ける

 ここで勝新の経歴を振り返ってみよう。1931年、東京・深川の生まれ、チャキチャキの江戸っ子のはずだったが、母親が出産で実家に帰っていたため、千葉県の生まれになってしまった。千葉の方々には申し訳ないが、それが「人生最大の痛恨事」と嘆いていたそうである。

 子供のころからきかん坊で、長唄三味線方の家に生まれながら邦楽界の古い因習を嫌い、54年、大映に入社する。「美男路線」でデビューするが、同期の市川雷蔵(1931〜1969)に大きく水をあけられた。鳴かず飛ばずの日々が続くが、映画「不知火検校」(60年)が転機となる。悪の限りを尽くすが、かといって憎めないところもある僧侶役である。従来型の白塗り二枚目役でなかったのが受けたのだろう。

 その後、「悪名」「座頭市」「兵隊やくざ」といった映画シリーズで、悪漢ヒーローを演じてスターダムにのしあがる。安保闘争に敗れ挫折感に襲われた若者たちの心をとらえた、という解釈もある。

 映画製作者としても意欲に満ちた人だった。映画評論家の白井佳夫(91)は「いつ会っても次に作る映画への夢を語り続け、彼の周囲にはいつも、最も新しい日本映画を作ろうという気概にあふれた若い監督やシナリオライター、プロデューサーがいた」(朝日新聞:97年6月21日夕刊・芸能面)と、勝新の訃報を受けて評伝を寄せた。

 人間くささをプンプン漂わせ、野太い声で周囲を魅了した勝新。パンツに麻薬を隠していた事件はいただけなかったが、映画「影武者」(80年)で黒澤明監督(1910~1998)と対立し、途中降板したのは、勝新らしい事件だった。

 96年5月、夫人の中村玉緒さん(84)と共演の舞台「夫婦善哉 東男京女」の公演中に喉の不調を訴え、がんの宣告を受けた。「声が出なくなったら、勝新という社会資本がなくなる」。周囲の助言もあり、摘出手術はせず、放射線などの治療を続けた。

 同年11月の退院記者会見には、黒のスーツとシャツ、赤いネクタイ姿で現れた。「たばこと酒はやめた」と言った早々、一服したのには、集まった報道陣から驚きの声があがった。

「勝さん、医者に駄目だと言われたんじゃないですか」

 とリポーターに叱られたが、勝新はニヤリ。

「ビールがうまい。(がんの治療で味覚が変わり)オレンジジュースの味がするから、ビールじゃないんだ」

 と“勝新節”も健在。報道陣を煙に巻いたが、「たえず自分に感心を向かせたい」「話題をつくりたい」というサービス精神からのパフォーマンスだったのかもしれない。

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