『遠野物語』はたった5日の滞在で書かれた 偶然「民話の里」になった土地の現在(古市憲寿)

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 岩手県遠野と聞けば、柳田國男の『遠野物語』を思い出す人が多いだろう。遠野地方の伝承を集めた記録書である。だが柳田の出身は今でいう兵庫県。なぜ東北の物語を集めることになったのか。

 きっかけは早稲田大学の学生だった佐々木喜善との出会いだった。遠野出身の佐々木から不思議な伝承を聞き、柳田はえらく関心を持った。数回に分けて佐々木から話を聞き、『遠野物語』の草稿をしたためた。

 もちろん自身でも遠野に赴くことになった。では滞在期間はどれくらいだったのだろうか。勝手に数カ月くらいかけてフィールドワークしたものだと思い込んでいたら、全然違った。答えは5日間である。5日といっても、1日目は到着が夜の8時。最終日も昼過ぎには遠野をたっている。実質的には3日、せいぜい4日といったところか。1909年8月末のことだった。

 さすが柳田先生である。たった数日の現地滞在にもかかわらず『遠野物語』を完成させ、それが未だに有名なのだから。柳田が滞在した高善旅館など「柳田國男展示館」として改装され、立派な観光資源だ。

 実は『遠野物語』は刊行当時から大ヒットしたわけではない。初版部数は350部。だが柳田を敬愛する学者を中心に本は読み継がれた。

 1930年には門下の折口信夫が遠野を訪問している。柳田と同じ体験を試みようとするが、座敷わらしの話など誰もしてくれない。たった20年で遠野は様変わりしてしまったのだ。同じ頃に仏文学者の桑原武夫も遠野を訪れている。桑原のエッセイには、旅館の女中の「盆踊りなら古くさい土地の歌より蓄音機の東京音頭で踊るとおもしろい」という証言が残されている。

 1958年には社会学者の加藤秀俊が遠野を訪れた。柳田と直接交流のあった最後の世代だろう。遠野の様子はさらに様変わりしていた。「そこには映画館があり、オートバイが走り、娘さんたちは洋裁学校に通い、喫茶店では、イブ・モンタンのレコードがかかっていた」(『北上の文化』)。

 さて2023年の遠野はどうなっているのか。観光地はことごとく『遠野物語』推しだった。駅前にはカッパの銅像が建ち並び、とおの物語の館へ行けば「語り部」が昔話をしてくれる。「座敷わらし仮装コンテスト」なんてものが開催されたこともあったという。

 恐らく折口や加藤が訪れた時代よりも、そこには柳田の『遠野物語』の世界が色濃くあった。もちろん再現に過ぎないわけだが、当時最新の風俗だった東京音頭のかかる蓄音機やイブ・モンタンのレコードが消え去っても、カッパや座敷わらしは残ったのである。

 柳田の数日の滞在が遠野の運命を大きく変えたともいえる。実際『遠野物語』に登場する物語のほとんどは、広く日本中で伝承されたもので、当地固有のものというわけではない。遠野が「民話の里」になったのは偶然によるものだ。ところで偉そうに遠野について書いてきたが、僕の滞在はわずか2時間であった。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2023年11月30日号掲載

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