実刑判決から40年…田中角栄が教える“正しい札束の配り方” 側近議員は「俺が運んだのは1億円」

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 圧倒的な資金力を武器に総理の座を手に入れたことで「金権政治の象徴」と呼ばれた田中角栄。東京地裁は、ロッキード事件で、40年前の1983年に10月12日に懲役4年・追徴金5億円の実刑判決を下した。結局、最高裁での上告審中だった93年12月に亡くなった。カネの話を抜きに角栄を語ることはできないが、そこに知られざる流儀があったのも事実である。「今太閤」ともてはやされた男に学ぶ「正しい札束の配り方」とは(本記事は、「週刊新潮 別冊 創刊60周年記念/2016年8月23日号」に掲載された内容を転載したものです)。

「陣中見舞い」に5千万円の紙袋二つ

「俺が実際に運んだ金で、額が一番多かったのは1億円。田中内閣を作る時のことで、いまから40年以上も前になる。オヤジに言われて5千万円を入れた紙袋を二つ、ある派閥の領袖の事務所に“陣中見舞い”っていう名目で、両手にぶら下げて持ってった。あれは結構、重たいもんだよ」

 懐かしそうなまなしで生々しい過去を口にするのは、かつて“田中派七奉行”の一人に数えられた渡部恒三元衆議院副議長(84)だ。平成24年(2012年)11月に政界引退を表明し、現在は民進党顧問を務めている。

「それで、相手の事務所に着いたら“田中からです”と言って渡したんだ。まあ、向こうも心得たもので“はい、どうも”で終わり。こういう時は、お互いにムダ話はしないもんなんだ」

 昭和47年(1972年)7月5日、田中角栄は総裁選挙で前首相の佐藤栄作が支持を表明した福田赳夫を破り、第6代の自由民主党総裁に就任した。さらに翌6日には国会の首班指名で戦後11人目の総理大臣に選出され、遂に国権の頂点に上り詰めた。渡部氏が“密使”を務めたのは、ちょうどこの直前の時期である。

 死から20年以上を経たいまも、世間は何度目かの角栄ブームに沸いている。その田中角栄を語る時に必ず出てくるフレーズが「金権」だ。が、「今太閤」と親しまれ、あるいは「闇将軍」と唾棄された角栄には、現代に生きる我々が範とすべき点が少なくない。それは、かつて世間の強い批判にさらされた、札束の配り方においても例外ではない。
 
 さて、現役時代に角栄の名代として多くの議員に札束を届けた渡部氏が初めて角栄に会ったのは、昭和44年(69年)の暮れだった。

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