“世界ヘビー級王座”を目指した「西島洋介さん」が明かす“名物会長”との知られざる絆 伝説の多くは“演出”でも「師匠には感謝しかない」

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「路上で突然、会長から『君はヘビー級チャンピオンになれる』と声をかけられた――というのは“演出”でした」

 そう柔和な表情で話すのは、かつて「西島洋介山」のリングネームで、日本人初の世界ヘビー級王座を目指した元プロボクサー・西島洋介さんだ。リングシューズではなくブルーの足袋でステップを踏み、手裏剣パンチや宇宙パンチといった必殺パンチを放つ。90年代、突如現れた規格外のボクサーは、間違いなく一世を風靡した。

「西島洋介山」はどのようにして誕生したのか? 自身が経営する千葉県松戸市にあるスポーツバー「AN」で振り返ってもらった。(前後編のうち「前編」)【我妻弘崇/フリーライター】

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「当時、自分は埼玉県の上尾に住んでいたのですが、上尾から浦和の高校に通う途中に、大宮にあるオサムジムの看板を見つけました。私は、マイク・タイソンにあこがれを抱いていたので、ボクシングを始めたかったんです。自分で足を運んで普通に入門したので、“声をかけられた”わけではありません。オサムジムの(渡辺)治会長が、話題作りのために創作したエンターテイメントです(笑)」(西島さん、以下同)

 マイク・タイソンにあこがれていた西島さんは、入門時、体重を93キロまで増量して、オサムジムの門を叩いたという。だが、「ヘビー級でやりたい」と話すと、治会長から「ヘビー級は設けていないから、ミドル級まで落としなさい」と伝えられたと苦笑する。

「最初は指示通りに体重を落としていったのですが、徐々に落ちなくなってしまって。タイソンへのあこがれも捨てきれなかったので、なんとか重量級のヘビー級やクルーザー級で挑戦できないかと懇願しました」

 熱意が通じ、西島さんは高校卒業直後の1992年3月、ヘビー級の選手としてプロデビューする。リングネームは、「山のように大きな男になれ」という意味を込めて命名された。

「それまで普通の格好をしていたのですが、自分のデビュー戦から師匠(治会長)はテンガロンハットをかぶり始めました」

エンターテイメント精神にあふれた名伯楽

 西島洋介山の存在を思い返すとき、多くの人がその傍らにいた渡辺治会長の姿もフラッシュバックするに違いない。エンターテイメント精神にあふれた名伯楽は、ときに西島さん以上にスポットライトを浴びることも珍しくなかった。

 話題を作るのには理由があった。この時代、オサムジムはプロボクサーを8名ほど抱える、比較的大きな部類に入る中堅ジムだった。しかし、西島さんに匹敵する体躯を誇るボクサーはおらず、他のジムにもヘビー級のボクサーはいなかった。

 日本人初の重量級の王座を目指す――。すなわちそれは、過去に存在しない新しいわだちを作ることを意味した。国内で練習相手や対戦相手を探すこと自体、極めて難しいこと。事実、西島さんはボクシングで27戦しているが、うち26戦が外国籍のボクサーとの対戦だった。

「アメリカから対戦相手を連れてきて日本に滞在させる。こうした費用は、すべてオサムジムが負担します。そのため、私の一試合は、他の選手の一試合よりもコストがかかります。いま思えば、自分はとても優遇されていた。ジムの先輩にあいさつをしても無視をされることも少なくなかったので、嫉妬の対象になっていたんだと思います」

 コストがかかるからこそ、話題を作って注目を集める必要があった。注目を集めればスポンサーが付くからだ。

「元WBC・IBF世界スーパーウェルター級王者のテリー・ノリスが好きで、腕をしならせるように繰り出す彼のジャブを真似していたら、突然、“手裏剣パンチだ”と命名された」と笑って明かすように、稀代のアイデアマンだった治会長なくして“洋介山人気”はなりえなかった。

 なお、足袋は演出ではなく、「リングシューズよりも動きやすくて、自分にはしっくりきた」といい、好んで着用していたそうだ。ただし、ブルーやピンクといった奇抜な色の足袋は治会長のアイデアで、日本製にはないカラーだったため、タイ製の足袋を履いていたと明かす。

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