15年ぶり帰国で刑務所へ 「在日タイ人」がタクシン元首相を圧倒的に支持していたワケ

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2011年の来日時には、寺が化粧品のにおいでむせかえるほどだった

 タクシンはチェンマイ出身の中国系タイ人だ。客家系である。一度、タクシンの取材をしようとバンコクにあるタイ国客家協会に連絡を入れたが、ガードは堅かった。

 彼は警察官僚を経て事業家に転身すると、携帯電話事業などを手がけて資産を築き、政界に進出する。ある意味、新興財閥で、支持基盤をつくるために農村に目をつける。それまでのタイの政治はバンコクが中心。豊かなバンコクと貧しい農村という構図ができあがっていた。それをタクシンは逆手にとる。 階級利害調整型ともいわれる手法で、次々に農村への優遇策を打ち出し、彼がつくったタイ愛国党は着実に支持を得ていく。これを、旧守派は警戒する。妻名義の会社をシンガポールの企業に売却した件が表面化する。シンガポールは客家系国家である。そのつながりがあったともいわれた。しかしそんな逆風下でも、選挙をするとタイ愛国党は圧倒的な票を集めた。東北タイという大票田を抑えていたからだ。

 しかしその後、タクシンは国外追放になる。2008年から、ドバイを拠点にした事実上の亡命生活になった。2011年には日本政府が彼にビザを出して来日する。タクシンは東京の三河島にあるタンマガーイ寺というタイの寺院に寄進に訪れるということだった。そのとき、日本にいるタクシン支持者が集まることになり、筆者に招待状が届いた。不法就労の取材を通して、多くのタイ人と知り合いになったためだ。彼らは筆者をタクシン派と考えていたのだろうか。タンマガーイ寺院には1,000人を超える支持者が集まった。スナックなどで働く女性が多いためか、寺のなかは化粧品のにおいでむせかえるほどだった。支持者にタクシンはもみくちゃにされながらも笑顔を絶やさない。ジャケットの背が汗でぐっしょり濡れていた。

 しかしこのときも、タイ国内では、赤シャツ派と旧守派の黄シャツ派の衝突はつづいていた。最終的には赤シャツ派のバンコク中心街の占拠に発展し、2014年の戒厳令、軍のクーデターにつながっていく。

 その後、軍政の流れをくむ政党が政権を握っていく。こうした上で今回の選挙は行われた。

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