没後50年「ブルース・リー」の生き方 ボスニアでの人気、名言「水になれ」の意味を考える

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「水になれ」

 その香港では、2019年に起きた民主化運動で、リーの名言「Be Water(水になれ)」が若者の間でも叫ばれた。

 水はコップに注げばコップの形になる。ボトルに注げばボトルの形になる。気体にも固体にも変化する。それにならい、特定のイデオロギーに縛られず、臨機応変に変幻自在に運動を展開しようとしたのである。

「水になれ」は、米テレビドラマ「グリーン・ホーネット」(1966~67年)で人気者になったリーにカナダのテレビ局が行ったインタビューの中でも発した言葉だ。

「水は流れ、水はものを砕くこともできる。水になれ、我が友よ」と熱く語った。

 リーは生前、ことあるごとに「水」という言葉を引用した。「水」という言葉が好きだった。あくまでも私の想像だが、私はこんな理由を思い浮かべる。

 喧嘩に明け暮れていた10代のとき、さらに強くなろうと広東省などで盛んな中国武術・詠春拳の門を叩いたリー。南シナ海の海岸で鍛錬をしていたとき、全力で拳を海に打ち込んだのではないか。

 もちろん水はまったく傷つかない。真実を見極めるのが早いリー。ハッと気づき、「俺も水のような存在になりたい」と思ったのではないだろうか。

「相手を6秒以内に倒す」

 それにしても、米サンフランシスコで生まれ、香港で育ち、再び米国に渡り、大学を卒業し、世界的アクションスターへの階段を昇っていったリーの32歳の生涯を振り返ると、本当にいろいろなことがあり、忙しかったことがよく分かる。まるで「人生の休息を否定する人」だったようだ。

 人生から「降りる」ことを嫌い、たとえ短い間でも休息を嫌ったのだろう。停滞と沈殿を嫌うリー。おそらく酒に酔っ払う人を嫌悪したに違いない。常に醒めていたいという思いがあり、だらーんと間延びしたような生き方を決して受け入れなかった。だからこそ、生きるエネルギーを32歳の若さで使い果たしてしまい、気づいたらあの超人的なアクションを生んだ肉体の炎も燃え尽くしてしまったのではないか。

 振り返ると、米国では理不尽な人種差別に何度もあった。だが、ワシントン大学で哲学を専攻。人から知識を教わって覚えたのではなく、自分で考え、乗り越えてきたに違いない。希望を失わず、「Walk On(歩み続けよ)」と自分自身に言い聞かせたのだろう。

 その人生哲学は、リーが創設した武道、ジークンドー(截拳道)にも見ることができる。シンプルかつ合理的。無駄な動きをそぎ落とし、素早くダイレクトに相手にダメージを与える。「相手を6秒以内に倒す」ことが大前提の武道である。

 世界的な名声を得る前に死者となっていたことが、リーの孤独や強さを印象づけ、神秘的な気配へと変えたことは事実である。死してなお生きる。滅しても魂は残る。たしかにリーは32歳で私たちに別れを告げ、永遠の旅に出てしまったが、数々の「ドラゴン伝説」は不滅である。

 この夏は「燃えよドラゴン」をはじめ「ドラゴン危機一発」「ドラゴン怒りの鉄拳」「ドラゴンへの道」「死亡遊戯」と主演5作をもう一度じっくり鑑賞したい。

 次回は「マジンガーZ」「バビル2世」などのヒット曲で世界中のアニメソングファンの心をつかみ、「アニソン界の帝王」と呼ばれた歌手・水木一郎さん。入退院を繰り返しつつがん治療を続け、思うように歌えなくなってもファンサービスを忘れなかった「アニキ」の魂に迫る。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴35年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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