没後50年「ブルース・リー」の生き方 ボスニアでの人気、名言「水になれ」の意味を考える

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 映画のヒットで大ブームが起こったとき、彼は32歳の若さでこの世を去っていた。突然の死をめぐる謎に数々の説が流れ、その存在がより神格化したブルース・リー(1940~1973)。没後50年を機に、日本の新聞社で唯一「大衆文化担当」の肩書を持つ朝日新聞編集委員の小泉信一さんが迫ります。様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。ブルース・リーの後編です。

「軽く寝る」と言ったまま…

 前回に続いてブルース・リー(李小龍)の話である。カンフー映画「燃えよドラゴン」などで世界中を熱狂の渦に巻き込んだリー。亡くなったのは1973年7月20日、32歳のときだった。いまも生きていたら82歳である。

 どんな人になっていただろう。俳優の仕事は続けていただろうか。それとも別の道を歩んでいただろうか。

 今年の命日、朝日新聞の夕刊解説面「現場へ!」で、リー没後50年をテーマにした連載を担当した。反響は大きく、記事を読んだ友人からこんなメールも届いた。

「政治家でなくても、国際情勢に影響を与える存在になっていたのでは。縁もゆかりもない国から頼まれ、オリンピックの聖火ランナーを務めたことでしょう」

 あのリーが聖火ランナー! 想像するだけでワクワクする。でも、人種の壁を乗り越え、アクション映画の常識を塗り替えたスーパースターだから、十分ありえただろう。

 それにしても、50年前のあの日、何があったのか。

 関係者らの話を総合すると、こんな時系列となる。当日、突然、頭痛を訴えたリー。鎮痛薬を飲んだ後、「軽く寝る」と言って横になった。だが、数時間が経っても起きてこない。様子を見に行ったところ、リーは意識を失っていたという。

 場所は、彼の愛人と言われていた女優ベティ・ティン・ペイ(丁珮=76 )の自宅。彼女は映画プロデューサーのレイモンド・チョウ(鄒文懐=1927~2018)を呼ぶ。医師も駆けつけ、蘇生を行うも意識は戻らない。救急車で病院に運ばれたときは、すでに亡くなっていたという。

 鎮痛剤の過敏性反応による脳浮腫が死因とされた。

世界各地でブームになる

 あまりにも唐突な死。実は最近、リーは深刻な腎機能障害を抱えていたという説が出てきた。腎臓は体内の水分を濾過し、尿として排出する臓器。水分の過剰摂取と尿の排出量が合わないと、心臓や脳などに水が溜まり、死につながる危険がある。水分の過剰摂取が死に導いたという説である。

 死の2カ月前、「燃えよドラゴン」のアフレコ中にリーが昏倒する出来事があった。一時、意識不明になるが回復。渡米して精密検査を受けたが、「異常なし」の結果だった。

 リーの死をめぐっては、さまざまな臆測が飛び交った。裏社会の人間に暗殺されたとする説。愛人に毒殺されたとする説。呪いの犠牲になったとする説。よくもまあ色々な説が出てきたものだ。スーパースターの突然の死だから、仕方がないといえば仕方がない。それが宿命なのだろう。

 肉体は滅びても時代を超えて愛されるリー。ボスニア・ヘルツェゴビナの南部の都市モスタルに、リーの銅像が立っているというから驚いてしまう。民族和解の象徴として、かつての戦場近くの公園に設置された。等身大(約170センチ)で、おなじみのファイティングポーズを決めている。「アチョー!!」という怪鳥音が異国の地から聞こえてきそうだ。

 70~80年代、ボスニアではリーが爆発的な人気を呼んだという。銅像を発案した関係者の1人は「異なる民族が団結する象徴がブルース・リー」と話したという。 2005年に開かれた建立式には、多くのクロアチア人やイスラム教徒が参加。設立を後援した中国とドイツの大使も出席した。

 米国生まれながらも香港で育ち、拳法修行に励んだリー。もちろん代表作は世界的に大ヒットしたハリウッド映画「燃えよドラゴン」だが、香港では悪役の日本人をなぎ倒した「ドラゴン怒りの鉄拳」や、ローマのコロセウムを舞台に白人空手家との死闘がクライマックスとなった「ドラゴンへの道」の興行成績のほうが良かったという。

 背景に、中国人への言われなき差別や偏見があったと思われる。「ドラゴン怒りの鉄拳」の中で、リーが日本人に向かって啖呵を切る。

「いいか。俺たち中国人は東亜病夫(アジアの病人)なんかじゃないんだ」

 すると香港の観客たちは一斉に立ち上がり、スクリーンのリーに向かって拳を掲げ、「ウオオオー!」と大歓声を上げたそうである。

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