怪物・江川卓が明かした「浮き上がるボール」の秘密 「普通はボールが抜けるけど、僕は抜けない」(小林信也)

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〈作新学院2年の江川卓がまたノーヒットノーラン〉

 そんな見出しが新聞を賑わせたのは1972年の夏だ。江川はその夏の栃木大会で、完全試合を含む3試合連続ノーヒットノーランを記録。続くブロック決勝でも延長10回二死まで小山高を無安打に抑えたが、11回裏にスクイズを決められ、甲子園に届かなかった。

 江川が甲子園に姿を現したのは73年春のセンバツだ。それは想像を絶する投球だった。バットがボールにかすりもしない。2回表、北陽高の5番打者有田二三男が江川の23球目を初めてバットに当て、スタンドにファウルが飛んだ時、ウォーッというどよめきが起こった……。初戦は19個、3回戦今治西戦は20個の三振を奪った。浮き上がる江川の球は、振ったバットのはるか上を越えていく。

 江川卓の怪物伝説は、多くの書き手やメディアが記している。快記録の数々、対戦した打者たちの回想。江川の球がどれだけすごかったかは詳しく書かれている。だが、「なぜ江川はそれほどの豪球を投げられたのか」、その詳細は判然としない。

 今春、私は2009年に日本文理高を全国準優勝に導いた大井道夫監督(現総監督)にインタビューした。その時、大井がふと言った。

「私が社会人野球を離れて宇都宮に戻っていた頃、小山中学の赤池先生から電話があった。すごい投手が転校してきたから、一度見にきてくれないかって」

 大井は59年夏の甲子園で準優勝した宇都宮工のエース。早稲田大、社会人野球の丸井を経て、家業を手伝いながら高校野球の解説者を務めていた。

「中学3年になったばかりの頃かな。ビックリしたよ。すごい球だった。驚いたのはね、江川はボールを離す時、手首を返さないんだ。手首と指を真っ直ぐ立てたまま、スッと腕を振り下ろす感じで」

 大井の言葉を聞いて、稲妻が走った。野球選手がボールを投げる時は手首を返し、人差指と中指の指先でボールを弾いて回転を与える、それが常識だ。ところが江川は手首を返さない! そんな投げ方は想像したことがなかった。だが、聞いてすぐ、江川の〈浮き上がるボール〉の謎の扉が開きそうな予感を覚えた。

“石投げ”の真実

 4カ月後の初夏、幸運にも江川と会い、秘密を尋ねる機会に恵まれた。現役時代は気難しい印象だったが、約40年ぶりに会ったこの日は少年時代からの記憶を詳しく話してくれた。

 江川投手の原点は「河原の石投げだ」という伝説は有名だ。だが、その話から浮かぶイメージに大きな誤解があった。私が読んだ雑誌もそうだったが、記事に添えられたイラストは、川面と同じ高さの河原から、石を水面にスキップさせて遊ぶ情景だった。だから、横から投げる石投げとあの豪球がどうつながるのか理解できなかった。江川が言った。

「当時住んでいた家は山の上にありまして、川は道路よりずいぶん下でした。向う岸まで80メートルくらい。小学校1年の頃から学校帰りに始めて、最初は全然届きませんでした」

 言いながら、上から石を投げる仕種をした。そう、江川の石投げは横手でなく投球と同じく上から、より遠くへと投げていたのだ。

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