標高3メートル「日本一低い山」に登山客が殺到 東日本大震災から12年後の「山開き」が笑顔に包まれた理由

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 あの忌まわしい大地震と大津波は、多くの市民の生命とふるさと、そして大切な思い出と残された人々の笑顔を一瞬にして奪い去った。だが――。東日本大震災から12年が過ぎた今年7月2日。宮城県仙台市の太平洋沿岸の被災地でたくさんの人が破顔一笑。笑顔が弾け飛んだ。

自然の一部と見なされると

 この日、仙台市宮城野区蒲生地区にある、日本一の低山・日和山(ひよりやま)で山開きが行われ、県内外から180人もの登山者が集結。標高わずか3メートルの山頂を目指した。

 仙台港の南側に位置する日和山は、国土地理院の地形図にその名が記された低山だ。その歴史は江戸のころに遡る。近くにある貞山運河の掘削作業で出た土砂が積み上げられてできた築山が日和山。国土地理院地名情報課によると、

「積み上げられた土砂が、周囲の風景に溶け込み自然の一部と見なされると、山と認定されることがあります。日和山もその一つです」

 という。

 日和山が国土地理院の地形図に掲載されたのは1991年。日本一低い山に、地元は沸いた。当時の標高は6.05メートル。遮るものがないため頂からは太平洋の大海原が一望でき、付近では野鳥が舞う市民の憩いの場となっていた。

 ところが、1996年に大阪の天保山が標高4.5メートルと認定され、「日本一」の座を奪われてしまった。それでも市民たちは、日和山と自然豊かな蒲生干潟を我が故郷として大切にしてきた。

18年ぶりに

 そして2011年3月11日。

 東日本大震災の10メートル近い大津波は、日和山を丸ごと飲み込み、多くの生命も思い出も奪い去っていった。この地区ではおよそ300人が犠牲となった。蒲生地区は当時、1160世帯、3118人が暮らしていたが、震災後「災害危険区域」に指定され、住むことができなくなった。住民はそれぞればらばらの地域への転居を余儀なくされた。多くの人が、思い出の詰まったかけがえのない故郷を喪失してしまった。

 山肌が削られ、津波で原形をとどめないほどの被害を受けた日和山は、だが2014年4月、国土地理院の調査で標高が3メートルとされ、18年ぶりに再び「日本一低い山」と認定されたのだ。地元の人たちの喜びはいうまでもなく、その年の7月1日、早速1回目の「山開き」が行われた。

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