天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”

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 天皇陛下のご著書『テムズとともに――英国の二年間』(紀伊國屋書店)には、英オックスフォード大学に留学された際の思い出が綴られている。だが、その背後には、日本への影響力拡大を目指す英国の思惑があった。機密解除文書から、その知られざる内幕を解き明かす。(前後編のうち「前編」)<『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社)より抜粋、一部加筆しています>【徳本栄一郎/ジャーナリスト】

「今日の私の生き方にどれだけプラスになっているか」

「私がオックスフォードに滞在したのは、一九八三年の六月末から八五年の十月初旬にいたる二年四カ月間であった。その間、とても一口では表現できない数々の経験を積むことができた」

「それらは常に青春の貴重な思い出として、時間、空間を超えて鮮やかによみがえってくる。その多くが今日の私の生き方にどれだけプラスになっているかは、いうまでもない」

 今春、今上天皇の英国留学の回顧録『テムズとともに』が復刊された。その冒頭は、こうした言葉で始まっている。
 
 1983年6月、学習院大学を卒業した浩宮(今上天皇)は、英国オックスフォード大学への留学に出発した。一般学生と寮生活をし、中世のテムズ川の水上交通史を学ぶためで、これほど長期間、皇族が海外に出るのは異例だった。その間、内側から英国を眺め、外から日本を見つめ直せたという。

 留学が、いかに大きな体験だったかが分かる。だが、それは浩宮が初めてではない。

 今から100年前、同じくオックスフォードで学んだのが、昭和天皇の弟・秩父宮だ。東洋の皇族の留学を、英国は国を挙げて歓迎した。その裏には、明治から脈々と続く、英国の深遠な外交戦略があった。

 関東大震災の翌年、1924年7月、皇居の濠を臨む駐日英国大使館から、ロンドンに電報が送られた。最高機密を指す「Most Confidential」とあり、10行余りの短い文面である。

「信頼できる筋によると、(大正)天皇の次男、秩父宮が、来春、英国に留学することがほぼ確定した。宮中は、当面、この件を極秘扱いにし、発表は控えるよう切望している」

 電報を作成したのは、当時のチャールズ・エリオット駐日英国大使。オックスフォード大学を卒業後、外務省に入り、ロシアやトルコでキャリアを重ね、4年前、東京に赴任した。このエリオットが心血を注いだのが、秩父宮の留学だった。

英国王から届いた歓迎の親電

 その年、秋も深まった11月、ロンドンの外務省に、エリオット大使から長文の報告が届く。留学は本決まりで、秩父宮は、天皇の息子の中で体力、知性共に、最も優れているという。

「留学の考えは、昨年7月、欧州訪問中の松平が最初に持ち出してきた。彼は、秩父宮の世話役に適任とされるドラモンド夫妻と、ロンドンで予備交渉を行った。その後、翌春の留学をめざし、松平は帰国した。

 しかし、昨年9月の大震災後、今は皇族が国を離れるべきでないとの空気が広がり、守旧派の実力者も、天皇の息子の留学は前例がないと反対した。その後、西園寺公望や宮内大臣らが賛成し、計画は、貞明皇后に提出され、予想外に早く承諾された。皇太子は、当初から留学に賛成しており、同意を得るのは容易であった」

 ここで登場する松平とは、当時、宮中の式部官だった松平慶民(よしたみ)を指す。彼自身、オックスフォードで学んだ経験がある。すでに1年以上前から、松平と英国側は、密かに根回しを進めていたのだった。

 そして、年が明けた1925年1月、英国のオースティン・チェンバレン外務大臣は、国王ジョージ五世に最終報告を送った。従来、日本の皇族はフランス留学が多く、英国は初めてとし、国王自ら、摂政宮に親電を打つべきという。

 それから間もなく、日本の新聞に、英国王からの親電の内容が紹介された。

「貴殿下が秩父宮殿下をして更に研学せしむる為め弊国に渡来することを許すべく決定されたるに就き貴殿下が弊国に対して示されたる顕著なる信任の情に対し甚く感銘する所あり」(「朝日新聞」、1925年1月24日付)

 日本の皇族が英国で教育を受けることになり、それを、国王も歓迎している。このニュースは、新鮮な驚きを伴って、国中に広まっていった。

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