天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”

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破棄された日英同盟

 機密解除されたこれらの文書から、奇異な印象を受ける人もいるかもしれない。いくら天皇家とはいえ、一青年皇族の留学だ。それを、まるで国家プロジェクトのように扱っている。駐日大使はおろか、外務大臣、国王まで動員し、根回しする。この裏には、当時の英国の思惑が隠れていた。

 過去、いくつもの世界帝国が登場したが、その中で、英国は特別な位置を占める。インドやアフリカに植民地を持ち、7つの海を航海し、日の沈まぬ大英帝国とされた。その英国が、20世紀初めに結んだのが、日英同盟だ。

 なぜ、誇りある大英帝国が、日本と手を組んだか。そこには、アジアの権益を狙うロシアへの警戒が横たわっていた。19世紀末、中国で外国人を排斥する義和団事件が起きると、各国は北京に軍隊を派遣する。ところが、その後も、ロシアは軍を引き揚げず、南下の意思を示し始めた。

 このままでは、自分たちの権益にも脅威となる。英国は焦るが、彼らとて、アフリカの戦争に手を焼き、単独で対抗できない。そこで結んだのが、日英同盟だった。

 ところが、1920年代に入ると、日英には暗雲が漂い始める。原因の一つは、米国だった。すでに米国は、日本の勢力拡大を警戒し、将来の対日戦争を想定していた。そして、そのネックは、日英同盟にあった。

 同盟の条約では、日英どちらかが戦争に入れば、他方も参戦し、援助するとある。もし日米が戦えば、米国と英国が戦う羽目になる。米国は、同盟の破棄を画策し、ついに受け入れさせるのに成功した。

 その後、英国はすぐに、シンガポール軍港の強化を検討し、日本では裏切られたとの感情が広がる。秩父宮の留学が決まったのは、まさにその最中だった。チェンバレン外務大臣から国王への報告では、シンガポール基地への「疑念」を晴らせるとある。たかが留学、されど留学なのだ。

 また、英国が神経を尖らせたのは、外交だけではない。日本の国内情勢に、重大な関心を寄せていた。

「宮中某重大事件」

 1924年7月、明治の元老で政界の重鎮、松方正義が亡くなった。薩摩武士の家系に生まれ、維新後、明治政府で大蔵卿として財政政策を取り仕切った。その後も、政府の意思決定に関わり、彼の死は、無視できなかったようだ。エリオット大使の本国への報告を見てみる。

「松方は、西郷(隆盛)や大久保(利通)、木戸(孝充)ら維新の英雄でなく、伊藤(博文)、井上(馨)、山縣(有朋)、大山(巌)と同じ第2世代に属する。これは、王政復古により、封建制度から西欧型政権に移行する危険な時期、国の運命を担った世代である。松方は、伊藤の先見性、井上の頭の回転の速さは持ち合わせないが、機会が到来するのを待つ能力を持っていた」

 明治の時代、伊藤や山縣らで構成する元老は、天皇の諮問機関の役割を担った。次期首相を推薦する他、外交にも目を光らせた。松方の死で、残る元老は、西園寺公望だけとなった。

 元老の力が弱まれば、日本の意思決定は、どう変わるか。それを、英国は掴みかねていた。その懸念を増幅したのが、大正天皇の存在である。

 もともと病弱な天皇は、この頃、とても公務に耐えられる状態ではなかった。そのため、皇太子裕仁が摂政に就き、代わりに公務をこなしていた。そして、松方の死の4ヵ月前、エリオットは、ロンドンに報告した。

「宮内省によると、天皇の病状は、前回の発表時より悪化している。これは、より深刻な状態を明らかにする前段階で、退位の準備の可能性もある」

「自分は最近、上海と香港を訪れたが、現地の外国人コミュニティーは、すでに天皇が死去したと信じる者も多い」

 摂政の皇太子裕仁は、まだ22歳の若さで、国内を掌握する力は未知数だ。また、彼の結婚を巡る混乱も、国内の不安定さを見せつけた。いわゆる「宮中某重大事件」である。

 これは、山縣有朋が、皇太子裕仁の妃に内定した良子女王(後の香淳皇后)の母方、島津家に色覚異常があるとし、婚約解消を迫った事件だ。西園寺公望や原敬首相は山縣を支持したが、大正天皇の皇后や島津家は、反山縣勢力を結集して対抗する。

 この裏には、長州出身の山縣が、薩摩の島津家の血が皇室に入るのを嫌ったとの説も流れ、政界を巻き込む騒ぎになった。結局、皇太子が良子との結婚を強く望み、右翼の頭山満も反山縣につき、ついに婚約破棄の企ては潰れた。

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