天皇陛下「英国留学」の原点 イギリス外務省が奔走した100年前の“国家プロジェクト”

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「彼らは完成を夢みて一つ一つ石を積んでいく」

 皇太子の婚約一つで混乱するほど、国内が不安定であることを、英国は察知した。1924年1月の結婚の際、駐日大使館は本国に、皇族の人間関係を含む、詳細な報告を送った。

 明治から大正に移り、かつて維新を戦った世代は消えつつある。政党政治は定着せず、政治家は、権力闘争に明け暮れる。そして、宮中には、病弱な天皇と若い皇太子が控える。今後、日本の意思決定は、誰が、どうやって担うか。

 その真っ只中で、秩父宮の留学準備は進められた。この過程で、英国は、皇族を初め、政府要人と濃密な接触を図ることができた。そこから、日本の支配層のデリケートな情報が手に入る。留学自体、インテリジェンス収集の絶好の機会だったのだ。

 1925年7月、ロンドンのバッキンガム宮殿に近いビクトリア駅に、秩父宮と随員一行が到着した。出迎えたのは、王室関係者を初め、チェンバレン外務大臣らである。2年に亘るプロジェクトが成功した瞬間だ。

 そして、それは同時に、英国政府の後輩への貴重な財産になってくれた。80年代、彼らが浩宮留学に動いた際、前例にしたのが、秩父宮なのだ。その浩宮は回顧録『テムズとともに』で、こう振り返っている。

「私は、イギリスの人が常に長期的視点にたって物事を考えているように感じている。常に、差し迫ったもののみでなく、さらに先のことを考えながら、焦ることなく遂行していく国民性があるように感じる。これは、一つには家の建築方法と一脈通じるものがあるのではなかろうか。例えば、巨大な大聖堂にしても、それは数百年の歳月をかけて造られるものが多い。最初に石を積んだ石工は、その完成を見られない。しかし、彼らは完成を夢みて一つ一つ石を積んでいく」

 まさに、この最初に積まれた石が、100年前の留学だった。それなしに、令和の天皇が、オックスフォードで学ぶことはなかった。

 そして、やがて英国の視線は、もう一人の皇族に向けられる。彼の元へ家庭教師を送れば、日本での影響力を拡大できる。浩宮の父で、平成の天皇となる、皇太子明仁だった。

※以下、「後編」に続く。

徳本栄一郎(とくもと・えいいちろう)
1963年、佐賀県生まれ。著書に『英国機密ファイルの昭和天皇』(新潮社)、『エンペラー・ファイル――天皇三代の情報戦争』、『田中清玄――二十世紀を駆け抜けた快男児』(以上、文藝春秋)などがある。

デイリー新潮編集部

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