リクルート事件、“贈り主”の企業側で何が起こっていたのか 現代の危機管理にも通じる新事実の数々とは

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 永田町の金権汚染を白日の下にさらしたリクルート事件。だが“贈り主”となった企業側で何が起こっていたのか、十分な検証がなされてきたとは言い難い。江副浩正元会長が亡くなって10年、見えてきたのは現代企業の危機管理戦略にも通ずる新事実の数々だった。

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 戦後最大の汚職事件といわれた「リクルート事件」。今年は、事件のキーマンであったリクルートの元会長・江副浩正氏への有罪判決確定から20年、また、江副氏が76歳で亡くなってから10年という節目の年に当たる。

 事件の発端は今から35年前の1988年6月18日、朝日新聞が放った一本のスクープ記事だった。報じられたのは、神奈川県川崎市の助役が地元の再開発を巡ってリクルート側から関連会社「リクルートコスモス」の未公開株を“賄賂”として譲り受けていたという疑惑だ。だが、この川崎市助役の件に限って言えば、報道された時点で贈賄の公訴時効である3年がすでに経過。捜査当局やマスコミはもちろん、当のリクルートでさえこれが未曾有の大疑獄事件に発展することになるとは夢にも思わなかったに違いない。

熾烈な報道合戦

 ところが、朝日新聞のスクープに遅れること1週間。今度は産経新聞が森喜朗元文部相(当時=以下同)のもとにもコスモス社の未公開株が渡っていることをスクープ。以降、マスコミによる熾烈(しれつ)な報道合戦が繰り広げられ、翌89年にはリクルート側から1億5千万円以上の資金提供を受けていた竹下登首相が退陣を表明する事態に。未公開株による汚染は政・官・財におよび、NTTの前会長や中央官庁の事務次官、さらには宮澤喜一元蔵相や安倍晋太郎前自民党幹事長といった大物政治家の秘書、現役の衆院議員であった藤波孝生元官房長官までもが起訴される騒ぎとなったのだ。

 リクルート事件の後、永田町は改革の季節を迎える。すなわち、「クリーンな政治」が声高に叫ばれ、衆院議員選挙における中選挙区制が廃止。政党への“補助金”である政党助成金の制度も創設された。さらに公職選挙法の改正が行われるなど、金権政治に一定の歯止めをかける仕組みが次々と導入されたのだ。

人、物、金、そして情報

 一方、視点を“収賄側”である政治家から“贈賄側”であるリクルートに移すとどうか。

 100以上の個人や企業に未公開株をばらまくという前代未聞の汚職事件はいかにして起きたのか。当時の関係者に取材を行った結果、浮かび上がってきたのは、現代の企業人たちが反面教師として胸に刻んでおくべき、「危機管理」における重要なヒントの数々だった。

 当時、リクルートの管理部門に在籍していた元経営幹部によれば、リクルート事件は「人」、「物」、「金」、そして「情報」という四つの点から読み解くことができるという。

「例えば、『人』。リクルートは60年にまだ東京大学の学生だった江副さんが立ち上げたベンチャー企業の走りでした。大学新聞の広告会社としてリクルートを発足させた江副さんは、他のベンチャー経営者同様、常に闘い続けることで会社を成長させてきたんです。彼は自分の下で働く社員にも“闘う”ことを求め続け、そのDNAが未公開株事件にも大きく影響していたことは否めません」

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