名古屋城「エレベーター問題」に抜けている視点 なぜ“木造復元”するのか原点に返るべき

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家康が威信をかけて建てた天守の到達点

 名古屋城は徳川家康の命で慶長15年(1610) に築城工事がはじまり、西国の20の大名の負担で、延べ20万人の人夫が動員された。大坂に健在だった豊臣秀頼ににらみを利かせる目的があり、このため防衛力はもとより、天守の規模においても徳川家の威信がかけられていた。

 慶長17年(1612)12月に完成し、 昭和20年(1945)5月14日未明の名古屋大空襲で焼失した天守は、5重5階地下1階で、天守本体の高さは36.1メートル。豊臣秀吉が建てた大坂城天守より一回り以上大きく、当時、家康が建てた江戸城天守に次ぐ規模だった。

 その後、寛永4年(1627)に三代将軍家光が再建した大坂城天守は43.9メートル、同じく家光が建て直した江戸城の3代目天守は44.8メートルに達したが、この二つは完成から半世紀も経たずに焼失してしまい 、以後は名古屋城天守が日本最大であり続けた。また、約4,425平方メートルの延べ床面積は史上最大だった。

 下階から上階に向けて床面積を逓減させていく層塔式という、当時としては最新の形式で建てられ、厚さ約30センチの壁の内側には厚さ12センチのケヤキやカシの横板が埋め込まれ、史上最高の防弾性能を誇っていた。また、使用された木材は、丈夫で耐久性が高いが高価な木曽ヒノキがほとんどで、木材の面から見ても、史上もっとも豪華な天守だった。

 明治維新後、名古屋城は陸軍省が管轄する軍用地になって天守も兵舎に使われ、一時は取り壊しの危機にあったが、明治12年(1879) には姫路城と並んで、日本の城では最初に永久保存することが決まり、昭和5年(1930)には城郭としてはじめて旧国宝に指定されていた。

忠実に復元できる唯一の天守

 現在、天守は全国に12しか残っておらず、そのうちで最大の姫路城天守でも、延べ床面積は名古屋城天守の半分である。むろん規模だけで歴史的建造物の価値は測れないが、名古屋城天守の規模は天下人の建築ならではのものだった。天下人の天守で明治維新を迎えることができたのは名古屋城だけで、日本の城郭建築の到達点を示す最高峰の木造建築であったことは疑いない。

 だから、空襲で焼失したことが惜しまれてならないが、幸いなことに、名古屋城天守はその細部にいたるまでが記録にとどめられている。一時、皇室の離宮となっていた名古屋城が昭和5年(1939)、名古屋市に下賜され、同時に天守をふくむ24棟の建造物が国宝に指定されると、名古屋市土木部建築課はこれらの調査に着手し、文部省の指導のもと、細部にいたるまで計測された。

 その図面を整理する作業の最中に、天守をはじめ20棟がB29の焼夷弾爆撃で焼失してしまったが、図面の整理作業は戦後も続けられ、昭和27年(1952)に282枚の清書図と27枚の拓本の計309枚が完成した。また、昭和15年(1940)からはこれら24棟の写真撮影が行われ、733枚のガラス乾板に納められた。

 戦後に天守を再建した際は、城ばかりか市街地が焼け野原になった記憶がまだ浅い時期だったこともあり、耐火性能も考えて鉄筋コンクリート造が選ばれた。しかし、実測図と写真がこれだけそろい、細部にいたるまで史実に忠実に復元できる天守は、名古屋城をおいてほかにない。

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