日本語は本当にマイナーな言語なのか――多くの人が気付いていない知られざる実力

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

 現在、世界には6000語を超える言語が存在しているといわれている。その中で、日本語は日本国内で使われているだけだから、極めてマイナーな言語だというのが、一般的な日本人の認識なのではないか。

 ところが、そのような認識は正しくないと半世紀も前に指摘したのが、言語社会学者の鈴木孝夫氏。1975年当時、日本語は中国語、英語、スペイン語、ロシア語、ヒンディ語、そして、次のインドネシア語に並ぶ6番目に使用者が多い大言語だというのだ。その後、インドネシア語、アラビア語、フランス語、ポルトガル語、ベンガル語には抜かれたが、依然として、11位の位置にある。

 鈴木氏によると、さらに特筆すべきは、その使用される範囲が日本国内とほぼぴったり一致することだという。鈴木氏の著書『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』(新潮選書)から一部を再編集して、日本語の特殊な立ち位置について考えてみよう。

 ***

店員は日本語を話してくれるか

 私たちが日本国内をあちこちと旅行して廻っているとき、誰かに道を尋ねたいと思った場合に、向うから来る人がはたして日本語を話すかどうかと考えてみることがあるだろうか。近くの店に入って買物をするときに、店員が日本語を知っているかしらと心配したことがあるだろうか。おそらくこのようなことを考える日本人は多くはないだろう。日本語は日本国中どこでも通用するし、日本人なら誰でも日本語を話すということは、自明の理であって、問題にする必要がないのである。

 ところが、このように、自分の国の中ならば、出会う同国人は必ず自分と同じ言語を話すということが、疑うべくもない前提として通用する大国は、世界広しといえども日本くらいのものなのである。日本はこのようにおそろしく純度の高い単一言語国家であり、しかもその言語が世界の大言語の上位に位置するという事実が、私たち日本人にとっても、また他の国の人々にとっても、今後いろいろな問題を生むことになるのである。

美しいフランス語を話すアフリカの富豪

 日本語と日本人の特異な結びつきを示すために、もう一つの事実をあげてみよう。私たち日本人が国外を旅行しているとき、もしどこからか流暢な日本語が聞えてきたら、そこには本物の日本人がいると思ってまず間違いないということである。

 なにをくだらないと思う人があるかもしれないが、この事実ほど日本人と日本語の固い結びつきを具体的に示すものはないのである。日本語の代りに、同じことを英語なりフランス語なりの例で考えてみると、私が何を言いたいかがよく分ってもらえると思う。

 フランス人が国際線の飛行機に乗って旅行しているときに、美しいフランス語を耳にしたとしても、そこにフランス人がいることは必ずしも期待できないのだ。フランス以外のヨーロッパ諸国にはフランス語を自由に話せる沢山の人々がいる。それどころか、話し手はアフリカの金持、あるいはベトナム紳士であるかもしれない。

 これが世界のありとあらゆる国の人によって用いられている英語ともなれば、ある人が英語を上手に話すという事実だけからは、その人の国籍、人種、宗教などについての情報を得ることは不可能に近い。日本人であることと、日本語を話すということがほとんど同義語であり得るような状況は例外なのである。

 そこで問題を、今度はある国民と特定の言語との結びつきという見地から、一つの国の中で使用される言語が一つか複数か、つまり単一言語か複数言語かという観点だけに絞って、日本以外の国々の言語の実態を概観してみよう。

複数の公用語を使う国々

 世界には、国語ないし公用語として複数の言語が用いられている国があると言うとき、多くの人が第一に思いうかべるのはスイスであろう。500万ばかりの人口の約74パーセントがドイツ語を話し、ついでフランス語、イタリア語、そしてごく少数のロマンシュ語が使われている。ロマンシュ語を話す人の数はわずか4万人程度であるのに、これまで国語の一つとして認められている。

 アメリカ大陸ではカナダが、英語とフランス語の二言語を公用語としているので有名だ。ことにカナダ第一の都会モントリオールのあるケベック州では、行きずりの旅行者にもそれと分るほどの徹底した二重言語生活が行われている。

 世界一広大な領土を持つソビエト連邦(当時)が多言語国家であることは、むしろ当然のこととして理解されよう。ここでは2億3千万の人々が、なんと130にものぼる異った言語を使っていて、公用語の数も多い。もちろん連邦内の異民族、異言語使用者の間の共通語としてのロシア語の地位はゆるぎないものである。

 南アジアではインドが、あまりにも複雑な言語事情の故に、旧宗主国である英国が押しつけた英語を、独立国民としての根強い感情的反撥にもかかわらず、15種もの公用語の一つとして認めざるを得ないのが現状である。ヒンディ語は公用語として勢力を拡大してはいるが、ドラヴィダ系言語の使用者をはじめとする、これに反撥するヒンディ語系以外の国民の力は、政治的不安を作り出すほど強いものがある。

さて普通に多言語国家と称せられるものは、以上のように、一つの国の中で二つ以上の言語が公用語、あるいは国語としての地位を与えられている場合をさすことが多い。

英仏で勢力を増す少数民族言語

 しかしその公用語あるいは国語は一つであっても、国民のある部分が、主として私的な生活の場面では、公式の国語以外の言語を使用しているという、実質的な多言語性を持つ国ということになると、日本の知識人が事情を良く知っていると思っているイギリス本国やフランスでさえ、実は立派な多言語国家なのである。いやそれどころか、ある程度以上の大きさを持った世界の国々は、おどろくなかれ、ほとんどこの範疇に入ってしまうことになる。

 まず手はじめに、イギリスのことを考えてみよう。ここでは大ブリテン島の西部ウェールズ地方においてケルト系のウェールズ語が約65万の住民によって広く使用されている。北部にはゲール語を用いる少数の人々が居り、また英本国の一部をなす北アイルランドでは、アイルランド語が話されている。これらは、いずれもゲルマン系のアングロ・サクソン民族が大陸から侵入してくるまでは、大ブリテン島の先住民の言語だった。したがってケルト系言語は被征服民族の言語として長い間、日の目を見なかったのであるが、最近の世界的な少数民族集団の自立意識の高揚と、民族語の再興の気運に乗って、今やとみに勢力を盛り返している。要するにイギリスは英語だけの国ではないのである。

 フランス本国もフランス語だけではない。西北部のブルターニュ地方ではケルト系のブルトン語、西部のピレネー山地にはバスク語、西南部スペイン国境地方にはカタロニア語、さらに南部地中海ぞいではイタリア語を使用する人さえいる。またドイツと長い間帰属を争ったアルザス地方はドイツ語地帯でもある。フランス国内にドイツ語の一種を話すフランス国民がいるなどという事実は、私たちの持つフランスのイメージにはそぐわないものではないだろうか。

アメリカも「多言語」の国

 一般の日本人に想像もつかないような複雑な状態になっているのが、アメリカ合衆国の言語であろう。アメリカではどこでも英語が通用し、英語だけが話されていると思っている日本人が多いが、肝心のアメリカ人ですら、つい最近までそう信じていたのだから無理もないことである。アメリカにつぎつぎと渡って来る移民たちは、2世3世と世代が進むにつれて、かつての祖国からの言語や文化の影響が薄れ、人々はアメリカ英語アメリカ文化という共通のルツボの中に溶け合って行く。これが従来のアメリカ合衆国の言語、文化の姿に対する一般の見方だった。

 ところが1966年に著名な社会言語学者であるJ・A・フィッシュマンが長年にわたる調査を集約して『アメリカ合衆国における言語的忠誠度』という大著を著わし、それまで当のアメリカ人が気付かなかった、いや気付きたくなかった言語的多様性をあばき出したのである。

米国内にある1000局以上の外国語放送局

 この本では、英語以外の言語で出される新聞、外国語による国内放送、教会や学校で用いられる外国語など十数の項目にわたって、いかに根強く、いかに広汎に英語以外の多彩な言語が、日常生活に用いられているかが示されている。

 その中の一つにAmerican Council for Nationalities Servicesが行なった外国語によるラジオ放送の調査が出ている。これによると、大陸部アメリカ合衆国(つまりハワイなどを含まない)では、1965年には、驚くなかれ1005局の外国語放送局があり、全体で1週間あたり平均5000時間の放送を行なっていた。これが4年後には1300局、6200時間強と増大する傾向にあるという。外国語の種類別では、スペイン語、イタリア語、ポーランド語、ドイツ語、フランス語の順で上位5番が占められているが、全部で約40種の異った言語による放送があるとう。

 私も1972年にロサンゼルスを訪れた際、市営のバスに乗ったところ、車内の出入口を示す標示や注意事項が、英語とスペイン語で書いてあるのを見て、いまさらのように合衆国西南部が、元来はスペイン語地域だったことを感じたものである。

 前述のフィッシュマンの調査には、北アメリカ土着の、多種多様のインディアン諸語は含められていないが、多言語性という見地からこれをも含めて、改めてアメリカ合衆国の言語事情を見直してみると、様式こそちがえ、アメリカはソビエト連邦につぐ多言語国家だったのだという認識を新たにするのである。

一国家一言語という特殊性

 このような主要世界各国の言語事情を念頭に置きながら、我国の現状を見直すとき、そこに見られるあまりの均一性、徹底した等質性はまさに驚異に価する。国内のいかなる辺鄙な山村に行っても、方言の差こそあれ、日本語が通用し、また日本語しか通用しないのである。駅や道路標識などにおいて、外人観光客へのサービスとしての英語標示がわずかに見られる以外、紙幣も、切手も、公式文書も、教育も、一切が日本語という一言語だけでことのたりる日本は、国家全体の言語効率という見地からは世界最高である。日本は言語(そして人種および宗教)の問題が国論を二分するような政治の争点になり得ない数少ない近代国家の一つなのである。

※鈴木孝夫『閉された言語・日本語の世界【増補新版】』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。