昭和最大の不倫スキャンダル「西山事件裁判」で西山太吉氏を追及した検察官が晩年に語っていたこと

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「不倫報道」の始まり

 渡邉恒雄さんは、西山さんの事件で弁護側証人として法廷に立ち、現在のジャーナリズムの視点から見ても、「ジャーナリズムと取材源の秘匿」について極めてまっとうな弁論を展開した。「週刊読売」(1974年2月16日号)には次のように書いている。

〈西山記者が、彼女との関係の進行に関する事件のプロセスをすべて明らかに出来ないでいる事実を私は知っている。ついに保護しきれなかった情報源を、これ以上傷つけたくないからであろう〉(「密約」より)

 密約について、父は否定も肯定もしなかった。

 父はその後、「情を通じて」という言葉を選んだ公判の責任者だった検察幹部の名前を言ったように記憶しているが、私の関心は西山事件ではなく、沖縄に残る基地の問題だったのでそれ以上聞かなかった。ジャーナリストとして失格だが、若いころさんざん反発してきた父と和解した直後だったという事情もあって、さして突っ込めなかったのだ。

 だが、歴史的裁判を担当した当事者の本音を聞けたとは思っている。不倫なんて検察官も記者もみんなやっていた、当時の検察は世間がうるさいから「浮気裁判」をしぶしぶやった、と父は回顧しているのである。

 西山事件は、妻子を持つ記者の「浮気」をめぐって、日本中が興味津々となった最初の事件だったといえるだろう。「不倫報道の始まり」とも言える。「特ダネ」を取るために、西山さんは蓮見喜久子さんに意図的に接近、関係を持って機密文書を入手してスクープを放った末、「用済みになったその女を捨てた」とみなされた。

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