「西山事件」外務省女性事務官「悔恨の手記」に綴られていた悲痛な叫び 「西山記者と毎日新聞は私の最後のトリデである家庭までも破壊した」

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「ベッキー騒動の比じゃなかった」。「西山事件」を記憶する人は口を揃えてこう言う。いまよりはるかに不倫への風当たりが強かった昭和40年代、「世紀のスクープ」のウラに”情を通じた”女性が存在したことを知って世間は怒り狂った。新宿の「連れ込み旅館」で西山氏と一夜を共にした後、Aさんは西山氏から強引に機密書類を見せるよう要求される。機密漏洩が発覚した後、西山氏と毎日新聞が取った”不誠実な対応”とは……。

 ***

二度目の逢瀬

【昭和49(1974)年2月7日号「外務省機密文書漏洩事件 判決と離婚を期して 私の告白」ダイジェスト版の後編】※掲載時、女性事務官を実名で報道していましたが、本稿ではプライバシーに配慮し匿名にしました。

 翌日、役所で西山記者から私のデスクに電話がかかった。また次の土曜日に会いたいというのである。まわりに人はいるし、私はまごまごしてしまう。それをいいことに、西山記者は会いたいの一点張り。早く電話を切るためにも、つい私のほうから時間と場所を指示してしまった。土曜日の午後二時、『ホテル・ニューオータニ』のバー『カプリ』。以前、外務省の方に連れていっていただいたバーなのだ。

 たしかに、西山記者と私とは特別な間柄になってしまった。しかし、どうしたわけか、ぜひとも彼に会いたいという感情はさほどわいてはこなかった。『カプリ』で待ち合わせたのも、必ずしも愛情の上の期待からではない。電話を早く切ってしまいたかったことと、「お食事程度ならもう一度くらい……」と軽く考えたのである。

 約束通り、土曜日の午後二時、私は西山記者と『カプリ』で落ち合った。「ともかく外に出よう」と彼にうながされ、ホテルの前でタクシーに乗り込んだ。

「横浜に行こう」

 と、彼は勢いよくいう。バカな私はその時、あまり行ったおぼえのない横浜を頭に浮べて、「今日は中華街でお食事でもするのかな」なんて、ほんのちょっぴり胸をときめかしたりした。ところが、車が動きだすと、

「いまから横浜へ行くと遅くなるなあ」

 と独り言のようにいい、

「渋谷にしよう」

 と、今度は断定的につぶやいて、運転手にそう命じた。

「渋谷のどこですか?」

 と私がたずねると、

「別にどうというところじゃないよ。ゆっくりできる場所があるから、そこで話をしよう」

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