僧侶、年商170億円の社長、現場監督も… 元プロ野球選手たちが語る驚きのセカンドキャリア

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 甲子園で脚光を浴び、ドラフトで指名され、投げて打って大いなる記録を残した野球人も、時に本意でない形でグラウンドを去ることがある。野を転がる球のごとく行きつく先の見えぬ人生を歩む男たち。彼らのもとをノンフィクション・ライターの西所正道氏が訪ねた。

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〈野球バカではダメ。野球人生なんてたかだか20年。それから先の人生の方が長い。だから野球人たる前に、社会人たれ〉

 とは知将・野村克也氏が著書『野村の流儀』の中でつづった言葉である。現役を終え、コーチや解説者を続けられるのは一握り。ならばと野球以外の職業を探すも、その時すでに20代後半から30代、しかも一般的な社会人経験はゼロに近い。そんなハンディを背負ってスタートを切ったセカンドキャリアを、元選手たちはどう切り開いたのか。“オールド・ルーキー”たちの現実を追った。

「他人によって引退を決められた」

 阪神で開幕投手を3回務めた仲田幸司(58)もその一人だ。米軍将校の父と日本人の母を持つ通称“マイク”は、沖縄・興南高校時代、3季連続で甲子園に出場した。その実績を評価され、1983年、阪神からドラフト3位指名。入団3年目からローテーション入りし、80年代後半から90年代前半はキーオ、池田親興、猪俣隆らと先発陣の一角を担い、92年に14勝をマークし、奪三振王を取った。そんな仲田が今は建設会社の現場監督をしている。

 転機は95年のFA宣言。

「僕としてはFA宣言して阪神に残りたい、骨を埋めるつもりだと球団に話しました。年俸もそのままでエエと。ところが当時の球団代表が、『(君の)FA権は紙切れ同然や』と言ったので気持ちが切れましてね。『じゃあ出て行きます』と」

 ロッテで2年間プレーするが勝ち星なし。戦力外となった時、娘から初めて「パパの投げてるところが見たい」と言われ発奮。阪神の入団テストを受けることに。

「当時の一枝(修平)ヘッドコーチに『採るからそのつもりでいてくれよ』と言われ、新聞にも“仲田、当確”みたいな記事が出た。もう大丈夫やと」

 ところが大どんでん返しが待っていた。一枝コーチは仲田に言った。「すまん、遠山(奬志)を採ることになった」と。「おまえにはテレビ局に解説者の道をつけるから」とも言われた。

「自分は現役を続けたいのに、他人によって引退を決められた。解説していても、数年間は選手への未練を断ち切れなかったです」

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