“フィリピン初の地下アイドル”から“谷間チラリで配信BAN” 五十嵐早香、グラビア解禁までの波乱の道のり

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メイド喫茶のアルバイトがきっかけで

――過酷すぎてもはや修行ですね…。そこからSKE48にはどうやって入ったんですか?

 毎年夏休みには2か月間、フィリピンから日本に帰ってきてたんですよ。17歳の時も日本の夏休みぐらいに帰ってきて、秋葉原のメイド喫茶で人生で初めてのバイトをしたんです。そうしたらお客さんが、たまたまSKE48のファンの方で「今オーディションやってるから受けてみなよ」って言われてちょっと興味を持っちゃって。

 フィリピンで2年間アイドル活動をやってたんですけど、フィリピンには日本と違ってアイドル文化が定着していないので、ファンの方も限られますし、なかなかやりたいことができない。真剣にアイドルを職にしたいという強い思いがあったのでオーディションを受けました。

――アイドルにそこまで強い思いがあったんですね。

 人生で初めて人の心を動かした経験だったんです。私が誰かを変えることができるんだって実感して、仕事にしたいと思っていたんです。

 書類審査は夏だったんですけど、書類審査に合格したら、次の審査からは直接日本に受けに行かなきゃいけなかったんですよ。ただ、その時にはもう新学期が始まってたんで、フィリピンの学校に通っていたら、1次に受かったと連絡があって。学校に何も言わずに休んで、第2次面接を受けて帰ってきました。

 また勉強していたら、合格したので3次を受けに来てと言われて、最終的に合格。「1週間後に来てください」と言われたので、3日間で急いで荷物をまとめて日本に引っ越してきました。

――展開が目まぐるしい。五十嵐さんだけでなく、ご家族も引っ越しをしたんですか?

 私だけのつもりだったんですけど、お母さんがフィリピンにいるのに飽きちゃったみたいで。お母さん、寒いところが苦手だったんですよ。なので一家総出で名古屋に引っ越しました(笑)。

――アイドルになるため、家族全員が帰国するというのはすごいですね。いつかフィリピンにも戻りたいですか?

 はい!グラビアでは表紙も飾りたいですし、写真集も出したいんです。撮影ではフィリピンに行きたいですね。それがグラビアでの夢です。

握手会の衣装は自前、踊りすぎで骨折寸前…昇格後に即卒業した五十嵐早香の『アイドルより自立したかった』」へつづく

徳重龍徳(とくしげ・たつのり)
ライター。グラビア評論家。大学卒業後、東京スポーツ新聞社に入社。記者として年間100日以上グラビアアイドルを取材。2016年にウェブメディアに移籍し、著名人のインタビューを担当した。現在は退社し雑誌、ウェブで記事を執筆。個人ブログ「OUTCAST」も運営中。Twitter:@tatsunoritoku

デイリー新潮編集部

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